なんだりかんだり

電動車いすで街に繰り出して感じたことを気軽に書きます。

昭和な父

2016年04月20日 04時00分50秒 | 日記

4月14日木曜日23:08に、母と私に見守られ、父が永遠の眠りにつきました。最後の言葉はありませんでしたが、私たちの問い掛けに涙を流してました。医師によると苦しみがない、いわゆる「老衰」らしいです。何個も病気があり、内臓が弱まっていたそうです。84歳でした。

父は、昭和8年9月10日宮城県の女川町に生まれました。水産高校を卒業して、海上保安庁に入庁し最初の勤務地は、岩手県釜石市で、この地で母と出会い、私が誕生しました。巡視船に乗っており、一年の半分は、海の上、お正月やお盆に自宅にいたことはあまりありませんでした。台風や地震の時は「非常配備」がかかりますから、船から一時間以内のところに休みの時でもいなければなりませんし、遠くに行く時は、船長に届けて許可をもらわなければなりません。仕事上守秘義務があり、家を出たらどこに行って、いつ帰るのかは基本的に私たちにはわかりませんでした。ある時など、海難事故のニュースに父の姿が映り「お父さんここにいるんだわ」と思ったほどでした。

父は正に「昭和の父」の典型。家のことは母に任せっきりで仕事第一、責任感強く、家族をすごく愛していましたが、それを伝えるのが下手でした。無口(退官後、結構おしゃべりだと判明)でも、船乗りなので、ダンディでした。一回だけ父親参観日に来てくれたんですが、黒の革ジャンとサングラスをかけて現れて、担任の先生が目をまん丸くして「お父さんは、国家公務員だよね」と私に囁いて確認したという笑い話があります。44年間びっしり働いて、退官した後は、好きな石磨きや山菜採りで趣味に生きようとしていましたが、残念なことに病との戦いに明け暮れる日々が待ってました。

今回の通夜とお葬式、法要に使用した会場は、比較的新しいところで、エレベーターやトイレ、会場もイスが動かせるバリアフリーが進んでいるところでした。なので車椅子でも、喪主の補佐としての役割を果たすことができて、安心しました。よくありがちな阻害された扱いも受けずに済みました。そういえば、私が電動車椅子で走り回ったり、挨拶してる姿を親戚が見たのは初めてかも。年相応に扱われたことも。従姉妹とビールを飲んだのも。なんかやっと娘としての役割を始められました。もちろん葬儀屋さんや、周りの協力があってこそでしたが。早いもので、本日20日は初七日です。

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