今の弟子待町の航空写真です。
一番下の山が桜の時アップした「彦島南公園」です。

昭和36年(僕達中学二年生)の弟子待町の航空写真です。
今、残っているタンクは、どうやらその後建設されたもののようですね。

水雷発射場の突堤です。この突堤は明治期に作られたものです。
その後何度か補修されたようですが、しばらく前の台風で流された
外国籍の船が衝突して大破し、その後この状態が続いているとのことです。水雷とは・・・興味のある方は検索等でで調べてください。
司馬遼太郎の「坂の上の雲」で「水雷艇」の話が何度も出てましたね。

水雷を格納していたトンネルです。

中を覗いてみましょう。
今はふさがれていますが、昔はトンネル奥に上部へ抜ける運搬口があったようです。老の山の「ボウクウゴウ」で遊んだ記憶のある者としては、一瞬「ワクワク」する話ですね。

突堤から撮影した海軍浜です。
弟子待町で育った同期生は、夏ここで泳いだそうですね。
彦中時代、本村町で育った者としては、弟子待町ははるか遠い異界でした。それぞれがそれぞれの地域で少年時代を送っているという、当たり前の想像力が欠けていました。彦島の人間は西山海水浴場で泳ぐものだと思い込んでいました。

和布刈の方から関門海峡に入った船が響灘の方に抜けていく・・・。僕の大好きな光景です。なんて言ったらいいんでしょう。船がゆったりと関門海峡を通り抜けて行く様子を眺めていると、「人類の営み」といったものを感じるのです。船を操る船長は前日、女房と喧嘩していらつきを残しながら操船しているのかもしれない。機関長は反抗期の息子の対応に悩んでいるのかもしれません。でも、関門海峡を通過する船を眺めている僕には、そんなこと全て捨象されて、自然に抗しながら、あるいは折り合いながら、人類は営々と歴史を紡いで来ているんだ!と、感じてしまうのです。

突堤から弟子待町を写しました。
撮影した時には気づかなかったのですが、「台場」が写っているではないですか!

拡大してみます。
吉田松陰や高杉晋作が視察の際、見たであろう「台場跡」です。このような史跡が放置されているのに驚かされますね。しかし、砲7台にしては狭いので、台場の付属施設かもしれません。

突堤から弟子待町メインを写しました。
油槽所のタンクは数基残っているだけです。弟子待山(彦島ピラミッド)中腹の家々は、弟子待町ではなく、桜が丘町となっています。

ほら、山だった所、桜ヶ丘町になっているでしょう。

by チーム弥生
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