彦中三八ブログ 

彦島中学校を昭和38年3月に卒業した同期生のためのブログ。 掲示板「彦中昭和38年卒同期会」にもお立ち寄りください。

記憶の不確かさ [福浦の金毘羅社]

2018年07月31日 10時43分06秒 | 彦島各地訪問
彦島道路を不通にした大雨の次は、
暑さで本来のコースを忘れてしまったような
台風の来襲。
そして今、神戸は灼熱状態・・・

同期会で下関を訪れた時、
色々と撮ってきた写真を前にして
フウとため息をついています。
せっかく撮ってきたのだからと
アップすることにしました。

「何十年ぶりか!」の福浦の金毘羅さんです。



高く長く急な階段。
この急さは何十年経っても
忘れてはいなかった。

各段の階段の高さと踏面との長さを比べて見ても
高さの方が水平部の長さよりも長い。
45度以上であるのは間違いない。

途中で振り返ってみると、

金毘羅社の前の道路の向うには、
福浦湾が見えています。
しかし、このあたりまで海が見えましたが、

もう少し上ると、
木立の葉っぱで視界が遮られていました。

階段の半ばあたりの脇道

を行けば、急な階段を避けて
緩い登り道に出るのかもしれません。
反対側を見ると、同じように小径があります。

どちら側を選べば、上に続いているのでしょう。
これらの脇道も記憶には残っていません。

初志貫徹でそのまま階段を登り、上を眺めると、
手の届きそうなところに上の鳥居が神々しく
輝いています。


頂上に到着です。

?????

何かが違う?
頂上からの眺望がありません。
福浦湾全体を見渡せると思っていたのは、
僕の思い込みだったのか。

拝殿の脇に小高い場所があり、
上に碑が建てられています。

ここからの眺望の素晴らしさを讃える碑らしいのですが、
危なっかしい石段を登らねばならないので、

あきらめました。

僕が中学時代に登った時から
この金毘羅さんの上からの眺望は
無かったのでしょうか。
眺望は僕の思い込みだったのでしょうか。

眺望の代わりに、社殿の周りを巡りました。
長い年月の間に倒壊したと思われるものや

拝殿の後ろの本殿を横から眺め

裏手に回ると、別の緩い小径がありましたが、
どこに辿り着くかわからなかったので、
自転車を置いてある、正面に戻り、
もと来た階段を降りることにしました。
で、写真を整理しながら、
中学時代に登り、長く急な階段は覚えていたが、
テッペンからその当時海を眺めたのか、
当時から既に海が見えていなかったのか
全く覚えていない。


階段下の鳥居を裏から眺めると、
『昭和四年十月建立』とあり、
『百年祭記念』とも刻んでありました。


この金毘羅さんが建立されてから百年目が
昭和4年ということでしょうかね。

昭和4年は1929年であり、
その百年前といえば、1829年。
その頃はどんな時代だったのか。
興味を覚え、ちょっと調べてみました。
・明治維新の約40年前で、
・高杉晋作が生まれる十年位前です。

古い歴史年表を探し出して眺めると
激動の時代の幕開けを暗示する出来事が。。。
 1827年、頼山陽が「日本外史」を著わし
 1828年、シーボルト事件があり、
 1829年にシーボルトが国外追放です。
 1830年に、伊勢神宮のおかげ詣り流行
清国のアヘン戦争より10年位前の時代です。
後に高杉晋作もアヘン戦争で苦しんでいる上海を
実際に見聞してきたのでしたね。
その時、買い求めてきた拳銃の一つが
坂本龍馬に贈られたのだとか・・・
福浦の金毘羅社がその頃に造られたというのは、
そんな世情の変化を微妙に感じ取ったからと
いうことなのか・・・深読みですかね。
でも、ちょこっと歴史を復習できました。



by W

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