老い生いの詩

老いを生きて往く。老いの行く先は哀しみであり、それは生きる物の運命である。蜉蝣の如く静に死を受け容れて行く。

「ぽっくり死にたい」

2022-01-06 09:04:19 | 老いびとの聲
1766 「ぽっくり死にたい」


  111歳の誕生日を迎えることができた。108歳まで60分余り散歩をされていた。末の孫娘に看取られた。

よく老人は「ぽっくり死にたい」と口にする。
「ぽっくり死にたい」、それは一面では老人のねがいにも聞こえる。
ねたきりや「痴ほう(認知症)」だけにはなりたくないから
「ぽっくり死にたい」。
子どもに迷惑をけけたくない。
それが老人のねがいだとしたら、
寂しい気がしてならない。

いまや人生百歳の時代にむかい、脳卒中や認知症を患い
不自由さを抱えながら生きらえている老い人たち。

「いま何を考えているのか」
「死にたいと思いながらいきているのか」
「生きる望み(希望)をもっているのか」
「何を悩んでいるのか」
「何に戸惑っているのか」
「何を欲しているのか」

そうした老人の思いに対して
何ができるのか。

「忙しい、時間がない」と口にしがちだが
時間がないのは、病み思うようにうごくことができない老人たちである。

時間と幸福は
誰かが与えてくれるものではない。
自らつくっていく以外にない、と思いながらも
日々時間に流されてしまう自分がいる。

生きていてよかった
世話を受けた身だったけれど
また人間に生まれたい
そう思いながら最期の瞬間を迎えたい。

何ができるか
落ち穂を拾うように
老い人たちの聲を拾うことから
介護相談が始まる。

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