こんにちは。
水神です。
お医者半休につき、水曜日の日中に記述中。
ちょうどドラクエもメンテナンス中。
読みたい本はあるのだが。
また今度。
どうしても書きたい事があるから。
これを書かずにはいられないから。
そのくらいの言葉。
本気で向き合っているか?
三行詩形式崩してでも言いたいこと。
この話は、前回書いた話の続きです。
翌日曜日。車に乗りながら。もちろん花粉まみれになりながら。
考えた。
さて、ぼくはこの先どうあるべきか。
いや。ぼくはこの先どうありたいか。
ふと思ったのは。
仮に子供がいたとして。
その子供に誇れる父親か?
今の自分が。
答えは、ノン。
では、あるべき姿とは何ぞや。
どうあったら、誇れるのか。
足りないのは?
最低限の衣食住くらいの確保はできそうだ。
なので、そこは悩まない。捨象する。
では、人間として何が足りない。足りない?
子供に取って何が必要か。
子供いないので、ただの妄想ですが。
本気で向き合うこと。
だという結論に達しました。
子供に限らず、仕事でも遊びでも、女でもわんこでも。
道路のこのこ歩いているハクセキレイ(白鶺鴒)だって。
本気で向き合っているか?
相手と。外界と。自分ではなく。外と。
内にこもりがち。
自分が思うから、こうなのだ。ああなのだ。むりなのだ。
ではなく。
自分を捨象して。内側は見ずに。
純粋に相手、対象物、白鶺鴒と。
本気で向き合っているか?
相手の事を、相手の目線や、周囲の空気などをひっくるめて。
相手がどう考えているか。ではなく、相手がどう感じているか。
どう考えているか。=どう「自分」が思われているか。ではなく。
どう感じているか。=どう「相手」に思いを与えているか。
矢印の方向を自分ではなく、相手に向けて。
自分は、自分なのだから。
今ここにいるのが、自分。
それ以上でもそれ以下でもない。
自分と向き合う事の大切さは否定しないし、必須だとも思いますが。
それは一人のときにすればいいことで。
そこに何かるのになぜに自分と対話せんといかん。
例えば、わんこ。
本気で向き合ってくれるひとになつく。
子供だってそう。本気で一緒に遊んでくれる人がいれば、そのひととまた遊びたくなる。
わんこや子供はおそらくは、意識せず本気で向き合ってくれてると思います。
自分。に矢印を向けないから。
大人の悪い癖。くらいなもんではないでしょうか。
自分に矢印向けて、よけいな事考えて落ち込んでいくのなんて。
そして、仕事。
生き物ではない仕事ですら。
本気で向き合うのと、そうではないのでは結果が大きく変わる。
失敗したとしても、それは本気で向き合った結果であり、かなりの経験ができたはず。
同じ失敗でもてきとーに他人事のようにやって、あー、やっぱりだめだった。というのよりは。
そして。また人に戻るけど、それを周囲は見ている。意識せずとも。
意識を持ってみてくれてるのなんて、ぼくに恋してくれてる人くらいだと思います。
このひとについていきたい。とおもわれるひとは、おそらく例外なく本気で向き合っていると思われます。
その対象が何であれ。
何かをしたいなら。ひとを使えねばならん。
人を使うには。従ってもらう必要がある。
仕事で言えば、最低限の条件はお金ですが。
それだけで、いい仕事をしてくれるか?
と、考えていくとおのずとリーダーなる言葉が出てくる。
リーダーになりたいか?
言われると、んー。ん?
ととぼけてみたくなるが。
ある程度の規模の仕事を動かすには、必要な条件。
リーダーは目的ではなく、手段でしかない。ただの役割。
結果として、目指す成果を得るために必要なもの。
話がそれたので、戻す。
本気で向き合うことで、いろんなものが違う色に見えてきます。
正確には、今まで見えてなかった色が見えてきます。
いいところもあれば、わるいところも目につくでしょう。
けれど。今まで見えなかったものが見えたのです。
今まで見つけられなかったものを発見できたのです。
いいではないですか。それで。
本気で向き合ったからこそ、見えたのです。
本気で向き合うからこそ、見えるのです。
なによりも、いやいやながらやるよりも、本気で向き合った方がたのしい。
たとえそれが、トイレ掃除であったとしても。
結果として自分も幸福であるなら、これ以上何が必要か。
ただ。本気で向き合うというのはエネルギーがいります。
疲れます。くたびれます。よく眠れるし、お酒もおいしいです。
疲れたときは、休んでください。無理せず。無理は長くは続かない。
常に。が難しければ、日中だけ。とか。仕事だけ。とか。子供にだけ。とか。
慣れてけば、意識せずともあらゆる事に本気で向き合う事ができるようになるのではないかと思っています。
まだ始めて三日目。この先の自分の意識の変化もまた楽しみです。
水神です。
お医者半休につき、水曜日の日中に記述中。
ちょうどドラクエもメンテナンス中。
読みたい本はあるのだが。
また今度。
どうしても書きたい事があるから。
これを書かずにはいられないから。
そのくらいの言葉。
本気で向き合っているか?
三行詩形式崩してでも言いたいこと。
この話は、前回書いた話の続きです。
翌日曜日。車に乗りながら。もちろん花粉まみれになりながら。
考えた。
さて、ぼくはこの先どうあるべきか。
いや。ぼくはこの先どうありたいか。
ふと思ったのは。
仮に子供がいたとして。
その子供に誇れる父親か?
今の自分が。
答えは、ノン。
では、あるべき姿とは何ぞや。
どうあったら、誇れるのか。
足りないのは?
最低限の衣食住くらいの確保はできそうだ。
なので、そこは悩まない。捨象する。
では、人間として何が足りない。足りない?
子供に取って何が必要か。
子供いないので、ただの妄想ですが。
本気で向き合うこと。
だという結論に達しました。
子供に限らず、仕事でも遊びでも、女でもわんこでも。
道路のこのこ歩いているハクセキレイ(白鶺鴒)だって。
本気で向き合っているか?
相手と。外界と。自分ではなく。外と。
内にこもりがち。
自分が思うから、こうなのだ。ああなのだ。むりなのだ。
ではなく。
自分を捨象して。内側は見ずに。
純粋に相手、対象物、白鶺鴒と。
本気で向き合っているか?
相手の事を、相手の目線や、周囲の空気などをひっくるめて。
相手がどう考えているか。ではなく、相手がどう感じているか。
どう考えているか。=どう「自分」が思われているか。ではなく。
どう感じているか。=どう「相手」に思いを与えているか。
矢印の方向を自分ではなく、相手に向けて。
自分は、自分なのだから。
今ここにいるのが、自分。
それ以上でもそれ以下でもない。
自分と向き合う事の大切さは否定しないし、必須だとも思いますが。
それは一人のときにすればいいことで。
そこに何かるのになぜに自分と対話せんといかん。
例えば、わんこ。
本気で向き合ってくれるひとになつく。
子供だってそう。本気で一緒に遊んでくれる人がいれば、そのひととまた遊びたくなる。
わんこや子供はおそらくは、意識せず本気で向き合ってくれてると思います。
自分。に矢印を向けないから。
大人の悪い癖。くらいなもんではないでしょうか。
自分に矢印向けて、よけいな事考えて落ち込んでいくのなんて。
そして、仕事。
生き物ではない仕事ですら。
本気で向き合うのと、そうではないのでは結果が大きく変わる。
失敗したとしても、それは本気で向き合った結果であり、かなりの経験ができたはず。
同じ失敗でもてきとーに他人事のようにやって、あー、やっぱりだめだった。というのよりは。
そして。また人に戻るけど、それを周囲は見ている。意識せずとも。
意識を持ってみてくれてるのなんて、ぼくに恋してくれてる人くらいだと思います。
このひとについていきたい。とおもわれるひとは、おそらく例外なく本気で向き合っていると思われます。
その対象が何であれ。
何かをしたいなら。ひとを使えねばならん。
人を使うには。従ってもらう必要がある。
仕事で言えば、最低限の条件はお金ですが。
それだけで、いい仕事をしてくれるか?
と、考えていくとおのずとリーダーなる言葉が出てくる。
リーダーになりたいか?
言われると、んー。ん?
ととぼけてみたくなるが。
ある程度の規模の仕事を動かすには、必要な条件。
リーダーは目的ではなく、手段でしかない。ただの役割。
結果として、目指す成果を得るために必要なもの。
話がそれたので、戻す。
本気で向き合うことで、いろんなものが違う色に見えてきます。
正確には、今まで見えてなかった色が見えてきます。
いいところもあれば、わるいところも目につくでしょう。
けれど。今まで見えなかったものが見えたのです。
今まで見つけられなかったものを発見できたのです。
いいではないですか。それで。
本気で向き合ったからこそ、見えたのです。
本気で向き合うからこそ、見えるのです。
なによりも、いやいやながらやるよりも、本気で向き合った方がたのしい。
たとえそれが、トイレ掃除であったとしても。
結果として自分も幸福であるなら、これ以上何が必要か。
ただ。本気で向き合うというのはエネルギーがいります。
疲れます。くたびれます。よく眠れるし、お酒もおいしいです。
疲れたときは、休んでください。無理せず。無理は長くは続かない。
常に。が難しければ、日中だけ。とか。仕事だけ。とか。子供にだけ。とか。
慣れてけば、意識せずともあらゆる事に本気で向き合う事ができるようになるのではないかと思っています。
まだ始めて三日目。この先の自分の意識の変化もまた楽しみです。