HAZAMAN'S WORLD WEBLOG

自分が描く絵のことや、日々の暮らしの中でふと気付いたことなど・・・・

土曜日の大阪

2008年04月06日 | Weblog
4月5日土曜日。晴れ。
少年野球の子供たちがそこらで座り込んで弁当を食べている近所の公園を、ただ通り抜けるだけでもなぜか心がうきうきしてくるような、本当に気持ちの良い一日でした。

こんな日は自分が苦手な場所でも平気で行けることがあります。海月文庫という、小さな古本屋とギャラリーを兼ねた店が新大阪近辺にあります。ちょうど友人のクラフト作家が出品するグループ展を見に久々に新大阪に行きました。

梅田や淀屋橋辺りの画廊街界隈を歩いている時はさほど気にならないのですが、新大阪まで来ると、町が本当にまっ平らでだだっ広く、そこを碁盤の目に通りが走っていて、日常的に自分が過ごしている町のスケール感と明らかに違うのです。改めて大阪って平野なんだなと思い知らされます。

神戸に長く住んでいると、南北を海と山に挟まれ、東西に開けた狭い場所を動くという感覚が普通になります。そしてもちろん山があるから土地は基本的に傾いていて坂道が多くなります。そんなわけで狭くて傾いた土地に長くいると、広くてまっ平らな場所はどうも落ち着かないのです。こんなところに出てきて鷹が来たらどうしようと怯える、巣穴から出てきたねずみみたいな状態ですね。

それで、ふと思ったは、関西のまとまりの無さというのはこういう土地の特性に由来する本能的な好悪の感情があるのではないでしょうか。というのは、たとえば関東から見たときに関西というのはひとつの地域として見られる場合が多いのですが、ところがいざ現場に行ってみると、大概が「俺が一番だ!」みたいな感じで、関西圏なんて言葉のイメージが木っ端微塵に砕けてしまう感じがあります。実際自分も神戸の人間だという意識が最初にあって、大阪や京都はちょっと違うだろうとつい思いがちです。で、もしかするとその気持ちの大半は一種の島国根性やお山の大将的な、関西人の気質に由来するのでしょうが、同じような文化圏ながら、それぞれが住む土地の形状の違いが意外と深いところで影響しているんじゃないかと、ふと思ってしまいました。それほどに、僕は大阪の平らな町並みが苦手です。

ところが、昨日は違いました。地下鉄御堂筋線の西中島南方駅で下車し、例のとっても苦手な碁盤の目の通りを歩いていても、なぜかうきうきと気持ちがいいのです。これは明らかに昨日の春の陽気のおかげです。またまたふと思ったのですが、人が幸せだなと思うことのかなりの部分を生理的なものが占めているんですねきっと。幸せってなんだろうって思ったとき、たとえば経済的な充実度などがすぐにその条件として思い浮かべられるわけですが、もっと些細なことでも、十分幸せという感覚は得られるわけです。

やっと展覧会の話です。展覧会は縫うということをテーマにしたグループ展で、クラフト作品あり、さまざまなオブジェありと小さな会場ながら充実した内容だったと思います。

その中でF3サイズ(27.3cm×22.0cm)ぐらいの木枠に張った布に刺繍でドローイングをした作品があったのですが、ドローイングという、線が主体になるものについて、布に糸で縫いつけるという行為は、紙に鉛筆で線を引くという行為以上に物理的、あくまで物と物との組み合わせにしか見えないという気がしていたのに、意外なほどにそこに空間が感じられたのです。(*ここで言う空間とは、遠近法的な三次元の空間を意味しません)その作品に感じられた空間は、何か新しい絵画空間を感じさせるものではありませんでしたが、何よりもたった一本の絹糸が、こうも存在感を持つものかと久々に、ちょっと感心しました。この数年刺繍で作品を作る作家が散見されることを見ても、縫うという行為自体に作ることの新鮮さが潜んでいるのかもしれないですね。

まだ話はあったんですけど疲れたからおしまいです。


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