HAZAMAN'S WORLD WEBLOG

自分が描く絵のことや、日々の暮らしの中でふと気付いたことなど・・・・

しゅ~りょ~だよ(T-T)

2008年04月10日 | Weblog
去る4月7日(LA時間で4月6日)、長かったロサンゼルスでの田中慎平展も幕を下ろしました。

ギャラリーからのメッセージによると、最終日はARTWALKというイベントの日で、多くの人々がANDLABの入ったビルのある敷地を訪れ、いくつもあるギャラリーや、作家のスタジオを見学し、僕たちの個展にも足を運んでくれたそうです。

今回思ったのは、展覧会が観客の物になる時、作り手にとっては達成感や何かをやり遂げた充実感といようなものは、ほとんど感じられなくなるのだなという言うことでした。つまり、自分自身の意図で展示空間を満たし、それを厚い使命感とともに誰かに見せ付けるという快感は全く得られないということです。

僕たちがやったことといえば、長年作りためてきた作品を、必死になって梱包し、アメリカへ送っただけのことで(このときは体を動かした充実感がありました)、それをいかに見せるかということは、現地のスタッフにすべて委ねているわけです。

アートが、自己顕示するための道具では無いとすれば、作った後の作品のすべてを他人の手にゆだねることは決して誤ってはいないでしょう。むしろ、必死になって制作し、苦労して遠くまで作品を運び、展示も工夫を凝らして自分の色に染め上げた画廊の白い空間の中で観客を待ちながら、結局は相手から理解されない自分を見つけて落胆するというようなことをするぐらいなら、自分も、自分の作品の観客になれるほど冷静なまま自分の展覧会に臨める仕組みの方が、よほど面白いことが出来るように思えるのです。

もちろんこの意見は、ほかの作家にすれば、展覧会を作り上げるということを僕が放棄し、手抜きをする言い訳しているように思えるでしょう。けれども、アートが、人の感性や物の見方の多様性を引き出し、何か新たなものを発見していく道具であるとするならば、作り手がなすべきことは、たとえばドラえもんに成り代わってどこでもドアを作るところまでです。作家が作り出したどこでもドアを、どこに置いて誰が使ってどこへ行ってしまうのかということは、作り手が口出しするべき問題ではありません。

必要なことはただひとつ。作り出したどこでもドアの扉を開けたとき、そこに見知らぬ世界が広がっていることを保証することです。多分、それが最も困難なことのひとつだとも思うのですが。

おやすみなさい

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