chargeのブログ

人のブログを見て真似して書いていきます。似たブログを見つけたら教えてください。

価値についての私見

2013-05-21 17:14:01 | 雑記
 分野外だが商売をする事になるわけで今回はそれについて自分として密接に関連した事を適当に書いた。
 感じでやっぱり書いてしまっているので情報的に価値が低いが、読んでもらえるならばうれしい。 

 現在、人間が扱う数量には単位がある。
 長さをm、重さをkg、時間をsecondとするのがMSK単位系であり、今一般に用いられている単位系である。
 これを用いると速度はm/sとしてあらわされ、密度はkg/m^3のように表される。
 では価値というものをこの単位系で表現できるのであろうか?
 答えはあらかじめ断っておくと否である。
 経済学においては需要は価値によって決定していて、供給とはネジとナットの関係と同じ様なものではないかという事で、価値は案外にかっちりした概念が存在するもので普遍性があるとみなされていたのだが、今までの歴史的経緯や実際観測されている現象においては人間の価値認識は非常に浮動して不安定であり、ボルトとナットが結びつける作業自体が行われなくなったり、ボルトは用いるがナットを用いる事が必要ないように設計されていたりする事は頻繁に起きていて、しかも、エネルギーや重さと色合いや味などの異なった性質のものでも物々交換や通貨を用いて交換してしまうので良くわからなくなっている。
 確かに、異なるものであっても価値は時間や距離、重さのどれかまたは全部に依存して変化しているわけだが、同じ単位組み立てのものを交換している事は稀であって、どうして交換できているのかは人間の思い込みに依存するところは非常に大きい。
 どうして、今のところ日本では問題がそれほど大きいように感じないのであろうか。
 人が行っている思考という生命活動の一端が違うものでも同じぐらいに交換したという思い込みを多く伴っているからであろうと私は考える。
 もし、同じものしか交換しなかったら必要なものは手に入らない事になるが、自分には余剰していて、相手には不足しているものがあるときにその交換は双方に利益がある。
 自分がお金でモノを買っている時には、人の代理(何代目かは不明)で物々交換していると考えた方が良いのかもしれない。
  日本には「わらしべ長者」という昔話があるが、それは藁一本から次々に物を交換していて最後には屋敷まで手に入れるストーリーで荒唐無稽のように見えるが、場所によってないものとあるものがある以上、実際にそのような事が生じうる可能性が存在するうえに、昔はそのことが顕著であった事を考慮するとありうると考えた方が正しいわけで、この物語は大げさだが似たような事があったのであろうと思われる。
 実際世界でも松下電器が最初に売っていたのは懐中電灯であったり、ゼネラルエレクトリックが最初に売っていたのが竹炭フィラメントの電球だったりしたわけで時たまあることである事は知られている。
 もし、常に等価なものを交換していたら、わらしべ長者や松下幸之助、エジソンの様な人物は現れないわけだが、現実には確かに労力や手間が必要ないとか多めのものと労力や手間が必要であったり、少なめのものをお金を媒介したりして交換できる場所や状況が存在するので彼らは実際に現れている。
 しかし、そのように貨幣や物同士の交換は実際に利益があって多くの人の成功に結びつくだろうと思われてもやはり、交換時の価値というのはやはり不明なままである。
 本当に常に利益があればよいのだが同じ貨幣の中に逆向きの不利益の成分が混入している可能性は非常に大きく、損をする人も多くいて必ずしも良いとは言えない。
 物同士の交換を多くした方が自分としては余計な成分が無くて都合が良い場合もあるように思うのだが流通や利便性、そのほか法律に起因する問題もあってほとんど行われない。
 人間が物や金を交換する以上、価値がなんであるかという事は永久について回る問題であるように思うのだが、問題を緩和するには場所の制約や数の問題、曖昧さ、害意の問題をかなり解決できる電子技術は有効だと私は考えている。
 やっぱり、価値とは何かについては解決していないのだが必要な物同士の物々交換に近いところまでやりようによっては出来る可能性が高く、物理量として表す事が出来ていないため自然科学で扱えていない価値の問題の規模が少し小さくなるかもしれないからだ。
 ただ、大抵の人間自体の必要性というものは場所の制約や数の問題、情報の不自由さがあるほどに高まっているような状態で、元々手に入れようとした人間自体の価値は、その手段を進歩させる事によってかなり減ったような感じなのだが、こちらはどのように問題の解決・緩和をするのかは良くわからず、現実でもネット上でもコミュニティーを形成出来ている人も必要がある場合というのが稀で自己開示も警戒のために出来ず、多くが長続きはしないようだ。
 私には人間自体の必要性の方が重大だと思われた時期があったが、私の目の前や思いつきには自分自身が行っても実際に有効な、ある個人に対して有効な許可された共通の方法が殆ど無く失敗し、より多くの状況において低めた後はすでに遠い日の難しめの話である。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿