少年カメラ・クラブ

子供心を失わない大人であり続けたいと思います。

贈り物について

2010-03-15 08:48:44 | その他
まあ、おじさんにはあんまり関係ない話ではあるが、今頃の時期はバレンタインデーだのホワイトデーだのと、街の中では贈り物をしたり貰ったりすることが多い。好きだとか嫌いだとかそういうこともあるのだろうけど、今回はもうちょっと根源的に贈り物を考えてみたいと思う。つまり、なぜ人は贈り物をするのだろうかということだ。

ユニセフや赤十字へ寄付する人は、その見返りを期待して贈り物をするわけではないだろう。純粋にそうした組織の活動に共感して寄付をするということだ。それは知り合いや親せきに送るお中元やお歳暮だって同じかもしれない。その贈り物によって特段の見返りを期待しているわけではないだろう。

でも、それではなぜ人は贈り物をするのか。やはり、その贈り物をすることによって何らかの見返りを期待していると考えざるを得ないのかもしれない。

「何かあったら宜しくお願いしますね。」

くらいの意味が、そこには込められていると言って否定する人は、まあいないのではないだろうか。赤十字への寄付だってそうだ。特段の見返りを求めてはいないかもしれないが、その気持ちの中には「貴いこと」をしたことに対する自負心というか、神様に認められたい気持というかそんなものが全くないとは言い切れないだろう。

贈り物に限らずこの世に存在するすべてのモノには、その背後に人の気持ちが隠れていると言えるかもしれない。何気なく見ていると、そういうモノの背後の気持ち(これを因縁というのかもしれない)には気がつかない。でも道端の小さな杭が、実は土地の境界争いの深い因縁を背負っていたりする。また、電気製品についている何気ない小さなねじが、現場のトラブルや他の部分とのかかわりの中でいろんな因縁を背負ってそこについているということだってあるかもしれない。

そういうモノの背後にある人の思いというのは、モノそれ自身とは直接的には関係がない。木の切れっぱしでも、汚れたハンカチでも、そこにはいろんな気持ちが宿りうる。贈り物だってそうだ。高価な贈り物をしなければ、そこに思いを込めることが出来ないということではない。でも一方で、込めたい思いにふさわしい贈り物というのもあるかもしれない。たとえば花言葉を調べて自分の思いをそこに託すという時、その思いにふさわしい花を選ばないとなんだかおかしなことになるだろう。

仕事でも同じことのような気がする。仕事を受注し、仕様を満足する製品やプラントを納め、利益を上げる。これらの企業としてのリアルな活動の背後には、それに関与した人たちの気持ちがセットで必ずついて回る。もちろん、景気の悪い昨今、すべての関係者が満足するような仕事はあまりないかもしれない。でも、自分たちだけが勝って他社の人たちの不平不満ばかりが残るような仕事の仕方をすると、その仕事全体にそういう不満な気持ちが因縁となって影響を及ぼして行くのだと思う。物事というのはすべからくそんな風に運んでいくものだと思う。あれ、贈り物の話がどっかへいっちゃった。