少年カメラ・クラブ

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常識について

2008-11-13 09:46:35 | 哲学
常識に従って行動することは大事なことだ。あまりとっぴなことをやっても、周りの賛同が得られなければ先に進むことはできない。もちろん、全く常識的なことばかりやっていても進歩というものがない。このあたりが新規事業を考える上でも微妙なところではある。

さて、こういう話はこのコラムでも何度も議論してきたように思う。今回は、この問題を「常識」そのものの定義という角度から考えてみたいいと思う。いったい常識とは何だろうか。常識というのはみんなが認める認識であって、それ以上でも以下でもないと思うかも知れない。でも、もうちょっと常識について掘り下げて考えてみたいと思うのだ。

最近「健全な肉体に狂気は宿る」(内田、春日著、角川書店)という新書を読んだ。ちょっと変わった大学の先生とこちらもちょっと変わった精神科のお医者さんの対談の本である。ちょっと批判っぽいくだりが多いので、読んで楽しいかどうかは?だが、この中で常識についてのやり取りがある。この本の中で内田先生は、「常識というのはそこそこの強制力はあるが根拠がない。そこが常識のいいところだ。」と述べている。さらに「常識の持つ不確かさ、バランスの悪さが、常識を社会的装置として非常に上質なものにしている。」という。

あるアイデアがあったとしよう。それを

「それって常識的には考えられないよね。」

と否定されたとする。でも、それで話が終わりになってしまうかというと、そんなことはない。たとえば

「それで?常識ってどういう常識なのさ?」

と切り返すことができる。ここが大事なところだ。もし常識というのが原理主義的に厳格に守らねばならない戒律であったとすると、こういう反論はあり得ない。そういう常識の曖昧さこそが常識の持つ最も優れた側面なのだというのである。

常識というのは本質的に不安定なものなのである。それは時代によって変わり、場所によっても変わる。色々な側面で日本の常識が欧米の非常識であることなどは、良く知られていることだろう。

常識に基づいて発言する時、その常識が危うい基盤の上に立っているということをとりたてて言う必要はない。そんなことをしたら周りは混乱するだけだ。常識はいわゆる常識として扱えばいい。でも、心の中では、上に述べたように常識というのが実はあいまいで不安定な存在であるというパラドキシアルな側面を意識しておくことはきっと無駄なことではないと思う。