二日目は
越前大野のトトロから
背中は、ややむくれぎみ
荒島岳をバックにして南へ
黒谷に入って
謎の
越前ローマ水道橋
黒谷の防雪壁
なかなかの迫力、やがて、世界遺産かも
今回の最終目的地は
街道をゆく 18、宝慶寺の雲水
水田地帯をすぎて、いよいよ山間部の登りへ
途中でめまいがして、ふらふら
やっぱ、6割くらいの回復しかしてないか?
引用
ーー 「宝慶寺はどこでしょう」
たずねるべき村人を見いだせないのである ーー
村人はおろか、人家がない
ヘロヘロになって、到着
寂円も歩いたであろうか
ってたって、鎌倉期なんで、千年も前の話
ーー やがてそこだけが、
小さな箱のなかであるような小空間に ーー
ーー 出てしまった ーー
けっこう、明るい
ーー 最初に出くわしたのは、杉木立のはてにあった
粗末な四脚門で、 ーー
建て替えたのだろう、やや新しい
これはもっと新しい
ーー 楼門とはなばかりの簡素な ーー
ーー 無造作な石積の土台の上に、
小さな本堂が ーー
司馬遼太郎が訪れたのは、1980年10月とある
当時
ーー 宝慶寺は、いまは住職がいない。 ーー
ので、しょうがないか
ただ、本堂の内で、若い雲水が曹洞禅の
説破・説法の修行をビックリするくらいの大声で
近づきがたくてかげで立ち尽くしていると
これも、若い雲水が、「中へどうぞ」と、誘ってくれた
とても中へ入る勇気なんぞなくて
手を左右に振って、後ろにさがってしまった。
この宝慶寺集落に、江戸期には百戸近くの家があったという
こんな山坂の地に、とても想像できない
*本文のようやく*
(司馬遼をようやくしていいものかは、おいといて)
織田信長が越前を征服したとき、寺領百石をあたえたとある
7~8百万円/年くらいか
当時の安堵状に、光秀・秀吉・一益などの署名あるそうで
おもしろいじゃないですか
銀杏峯の方向、県境の能郷白山は、まだ
山ひだ三つくらい向こうなのだ
最後に
靴下に穴が開いていることにきずいて、買って帰った
街道をゆくの越前編
また出かけよう