Domyoji Tenmangu Shrine, Fujiidera City, Osaka Pref.
さてさて、道明寺天満宮を訪れたワタクシは、梅が見頃の梅園で観梅を楽しみました。
ところで、ここ道明寺天満宮のように菅原道真を祀る神社は、実に全国で12000社になるそうですが、
この菅原道真というのはどういう人物なのでしょうか。
道真は中級貴族の学者の家柄に生まれましたが、宇多天皇に寵愛されて高い地位に登っていきます。
宇多天皇は、権勢を誇る藤原氏に対抗させるため道真を登用したとされており、ついには右大臣に出世するんですね。
こうした出世が当然ながら他の貴族たちの反発を呼び、ライバルの藤原時平は宇多天皇の跡を継いだ醍醐天皇に対して
「道真があなたを廃して娘婿の斉世親王(醍醐の弟)を即位させようと企んでいる」と醍醐天皇に根も葉もないことを言うんですな。
この言葉を信じた醍醐天皇は、九州の大宰府へ道真を左遷します。2年後、無念の涙をのみながら道真は太宰府で死去しました。
その後、京都では次々と不吉な出来事が起こるんですね。
道真の死から5年後の908年、藤原菅根が雷にあたって死にました。菅根は道真の弟子だったのに、道真の失脚に加担した人物でした。
さらに翌年、道真を不幸に追いやったライバルの藤原時平が、39歳の若さで急死しましたた。
この頃から洪水、長雨、干ばつ、伝染病など変異が毎年のように続くようになり、
京の都では「道真が怨霊となり、祟りをなしているのではないか」と噂されるようになったんですよ。
923年、醍醐天皇の皇太子の保明親王が21歳の若さで亡くなります。保明は、藤原時平の妹・穏子が産んだ子でした。
わずか2歳で皇太子となったのだが、即位することなく死去したわけですね。醍醐天皇もこれは道真の祟りではないかと考えるようになり、
周囲の勧めもあったのでしょう、道真の大宰府行き命じた勅書を破棄し、その地位を右大臣に戻したうえ正二位を追贈しました。
しかし新たに皇太子となった保明の子・慶頼王も、2年後に5歳で死去します。慶頼の母の仁善子は時平の長女に当たります。
930年、御所の清涼殿に雷が落ち、大納言の藤原清貫と右中弁の平希世が亡くなりました。
これに衝撃を受けた醍醐天皇は体調を崩し、皇太子の寛明親王(保明の弟)に皇位を譲り、その年のうちに崩御しました。
そこで朝廷は、道真の霊を供養するために北野天満宮を創建することを容認します。
ちょうどこの時期、平将門の乱や藤原純友の乱などが続発しており、都の貴族たちは不安にさいなまれていたこともあり、
北野天満宮の建設は貴族たちにも容認されたようですね。
都の貴族たちは、雷神という祟る怨霊を神社に祀り上げることによって、学問神へと変化させたということですな。
使用したカメラ:FUJIFILM X-T30
私は菅原道真の功績の中で一番印象深いのは、遣唐使の廃止を天皇に提言し、それが認められたことなんですよ。
道真は唐の国力が衰え、大きな危険を冒して遣唐使を派遣する意味がないと考えたので、このような提言をしたのですが、
907年に唐は滅んでしまうのですから、道真には先見の明があったということですね。
そして、唐からの影響が無くなったことによって、日本独自の文化が育っていくわけですな。
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さてさて、道明寺天満宮を訪れたワタクシは、梅が見頃の梅園で観梅を楽しみました。
ところで、ここ道明寺天満宮のように菅原道真を祀る神社は、実に全国で12000社になるそうですが、
この菅原道真というのはどういう人物なのでしょうか。
道真は中級貴族の学者の家柄に生まれましたが、宇多天皇に寵愛されて高い地位に登っていきます。
宇多天皇は、権勢を誇る藤原氏に対抗させるため道真を登用したとされており、ついには右大臣に出世するんですね。
こうした出世が当然ながら他の貴族たちの反発を呼び、ライバルの藤原時平は宇多天皇の跡を継いだ醍醐天皇に対して
「道真があなたを廃して娘婿の斉世親王(醍醐の弟)を即位させようと企んでいる」と醍醐天皇に根も葉もないことを言うんですな。
この言葉を信じた醍醐天皇は、九州の大宰府へ道真を左遷します。2年後、無念の涙をのみながら道真は太宰府で死去しました。
その後、京都では次々と不吉な出来事が起こるんですね。
道真の死から5年後の908年、藤原菅根が雷にあたって死にました。菅根は道真の弟子だったのに、道真の失脚に加担した人物でした。
さらに翌年、道真を不幸に追いやったライバルの藤原時平が、39歳の若さで急死しましたた。
この頃から洪水、長雨、干ばつ、伝染病など変異が毎年のように続くようになり、
京の都では「道真が怨霊となり、祟りをなしているのではないか」と噂されるようになったんですよ。
923年、醍醐天皇の皇太子の保明親王が21歳の若さで亡くなります。保明は、藤原時平の妹・穏子が産んだ子でした。
わずか2歳で皇太子となったのだが、即位することなく死去したわけですね。醍醐天皇もこれは道真の祟りではないかと考えるようになり、
周囲の勧めもあったのでしょう、道真の大宰府行き命じた勅書を破棄し、その地位を右大臣に戻したうえ正二位を追贈しました。
しかし新たに皇太子となった保明の子・慶頼王も、2年後に5歳で死去します。慶頼の母の仁善子は時平の長女に当たります。
930年、御所の清涼殿に雷が落ち、大納言の藤原清貫と右中弁の平希世が亡くなりました。
これに衝撃を受けた醍醐天皇は体調を崩し、皇太子の寛明親王(保明の弟)に皇位を譲り、その年のうちに崩御しました。
そこで朝廷は、道真の霊を供養するために北野天満宮を創建することを容認します。
ちょうどこの時期、平将門の乱や藤原純友の乱などが続発しており、都の貴族たちは不安にさいなまれていたこともあり、
北野天満宮の建設は貴族たちにも容認されたようですね。
都の貴族たちは、雷神という祟る怨霊を神社に祀り上げることによって、学問神へと変化させたということですな。
使用したカメラ:FUJIFILM X-T30
私は菅原道真の功績の中で一番印象深いのは、遣唐使の廃止を天皇に提言し、それが認められたことなんですよ。
道真は唐の国力が衰え、大きな危険を冒して遣唐使を派遣する意味がないと考えたので、このような提言をしたのですが、
907年に唐は滅んでしまうのですから、道真には先見の明があったということですね。
そして、唐からの影響が無くなったことによって、日本独自の文化が育っていくわけですな。
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道明寺天満宮にも梅林があるのですね。
紅梅がメチャきれいです。
今夜はぽちだけですみません
道明寺天満宮にも梅林があるのですね。
紅梅がメチャきれいです。
ここを参拝したのもかなり前のことになります。
どこかに行くと、その思い出は、花と共に。
ということが多いかと思います。
やはり季節を代表するのが花だからでしょうね。
応援☆
梅林があるという事は、
それなりの数の梅の木があるわけだから、
見て楽しむことができて、
一歩足を踏み入れたらたまらないでしょうから。天満宮で、
いいお花見ができてよかったでした。
つぎは桜でしょう・・。🤩
その後数々の出来事があったのは、
朧気ながら知ってましたが、詳細を
知れて良かったです。
祟りと呼ぶべきか、不運だったのかは
よく分かりませんが。
優秀だったけど、出る杭は打たれる
だったんでしょうね。
凸
遣隋使から始まって遣唐使まで長きに渡り
中国から影響を受けた日本なんですね。
あの当時の船なんてエンジンもなく櫂を使っての渡航、漕ぎ手だけでも相当な人数だったでしょうね。
200人から500人以上の使節団ですから
相当な国家プロジェクトですね。
最後は得るものも少なくなり民間での取り引きも増えいいタイミングで止めたのでしょう。
道真の祟りも有名な話で当時は本気でビビっていたのでしょうね。
大河も平安時代と言う難しい時代を題材にしたドラマですが楽しませて頂いています♪
💻今日も「道明寺天満宮の素敵なウメ」を紹介して貰い楽しめました!👍&👏のBlogですネ!
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*👴:今朝もMyblogは旅行記をアップしてますの見て頂ければ嬉しいで~す!
🎥を見て頂いた感想コメントもよろしくお願いします。
🔶今日も元気で充実した一日で有りますように👋・👋!
こういうことってあるものなんですね
日本全国の天萬豆うの12000社は凄い数ですね
この時期お参りの方が多いことでしょう
あの歌を思い出しました
キレイな梅の花
ちょうど見頃に行けて
良かったですね。