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テサロニケ人への手紙第一5章

2018年06月09日 07時10分45秒 | 一般書簡
パウロは4章の後半に続いて再臨の問題を取り上げる。当時、再臨がいつかということは非常に大きな問題であったし、再臨についての様々な惑わしの教えもあった。だから、人々はいついつ再臨が来るというような話があるとすぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたり、結局、だまされたりということがあったようだ。
 しかし、イエスご自身、その時期については誰も知らない、自分自身も知らない、ただ父なる神のみが知っておられると明言されている(マルコ13:32、マタイ24:36、使徒1:7)。パウロも、いつかを問題にする新しい惑わしに騙されないように勧める。そして、いつでも主に迎えられる覚悟があれば、いつか、という時は問題ではないはずだと語るのである。卑近な例ではあるが常日頃きちんと勉強していれば、いつ試験があっても、問題はないのと同じである。クリスチャンも常日頃、神の御前に生きているなら、いつ主の日が来ても慌てることもない。
 大切なのは、私たちはもう救われている、神の子、光の子とされていることなのだ。現実とその与えられた身分とのギャップは激しいものがあるかもしれない。しかし、光の子とされている者らしく光の中を歩み、光の子として完成されていくことが求められていることである。そこで、6節からパウロの数珠玉の勧めが続く
1) 光の子としていつも目を覚ましていよう。つまり主の日がいつでもよいように、備えができている状態であろう、ということだ(6節)。
2) そして慎み深くしていよう(6節)。心を引き締めて、軽はずみにではなく節度をもって行動しよう、ということだ。
3) 信仰、希望、愛の三拍子に歩もう(8節)。キリスト者は、楽観主義者である。ただ平安もないのに平安だ、と希望的観測を述べる偽善者ではない、また物事を深く考えずに、神に委ねていれば大丈夫という単細胞的楽観主義者でもない。むしろ、絶望や落胆の淵から立ち上がり、苦難を潜り抜けてなおも、主は真実であると主に信頼できるしたたかな楽観主義者なのである。だから、信仰、希望、愛の三拍子にしっかり立つ訓練が必要だ。
4) 互いに励まし合い、高め合おう(11節)。信仰者は一人で生きているのではない。天を目指す巡礼の旅を共に進んでいるのである。落伍者を一人も出さない、皆で一緒に天に帰ろう、そういう心掛けが大切だ。
5)教会のために最も心を配り、祈り、労している牧師の働きを認めてそのリーダーシップに従っていこう。尊敬には、後でテモテの手紙で見るように、経済的な意味もあるのかもしれない。働きに敬意を払うのみならず、その労に相応しく、生活が支えられるように配慮していこう、というわけだ。牧師の生活を考えるのは、その教会の信徒以外にはいないのである(12節)。
6)互いに教会が平和な場になるように努めよう。教会は、祈りの家であり、神の家である。困ったことがあったらまず祈り、訴えたいことがあれば、まず神に訴える。どんなによいことを語っても行っても、教会がごたごたしていたら、人は寄りつかない。赦しと助け合い、そして支え合いのある場が教会なのだ(13節)
5)物事を途中で投げ出し、隊列を乱すような気ままな人間は戒め、逆に小心な者、つまり勇気に欠けてくよくよ考えるような者は励ましていこう。さらに霊的に弱い者、そういう人を切り捨てるのではなく、世話をしていこう、という。やはり巡礼の旅は、最後まで皆で一緒に完結、皆一緒にいるよ、という気持ちを共有することだ(14節)。
6)教会に来る色々な人のことを考えるならば、全ての人に本当に寛容な気持ちをもたなくてはならない。短気であってはいけない、ということだ。誰でも馬鹿げたことを黙って見ているなどできない相談だからだ。しかし辛抱強くあろう。そうでなければ、向上、成長はありえない。
7)善を行なおう。目には目を、歯には歯を、これが当たり前の人間だ。しかしキリスト者は当たり前の人間ではない、神の子、光の子である。ならば、呪いに対して祝福を返し、敵意に直面したとしても、それを神の愛によって打ち破ることである。まさに十字架愛のしもべであれ、ということだ(15節)。
8)いつも喜んでいよう。苦難と深い喜びは両立する。パウロは患難さえも喜んだ。喜べない時でも喜べる霊的な成熟の道がある(16節)。
9)絶えず祈るろう。すべてが神の肩にかかっているかのように祈り続け、期待することだ。神が働いてくださる(17節)。
10)感謝しよう。神は物事を最前に導いてくださる、と信頼できれば感謝できないことも感謝できるものだ(18節)。
11)キリスト者の生活に暖かさと光をもたらす御霊の働きを妨げてはいけない(19節)。
12)預言をないがしろにしてはいけない(20節)。再臨の問題に絡んで、未来について語る預言は軽んぜられる傾向があったと思われる。しかしそれでも、預言は、軽んじられてはいけない。なぜなら、預言は未来の予告だけではなく、神のみこころの告知でもあるからだ。
13)だから神から与えられたという事柄をよく見分けて、識別して、本当に価値あるものを堅く守ることが大切になる。(21節)。
14)悪は多様である。あらゆる種類の悪から遠ざかろう(22節)
以上は、再臨に備えた心得をパウロは具体的に語った。しかし、大切なのは、頑張ってそのように生きるわけではないことだ。そのような目標をぶら下げて懸命に努力せよ、と言っているわけではない。注目しよう。24節、善い行いも主が備えてくださるものである。主が与えてくださる。パウロは祈りで締めくくり、自分に対する祈りを求めている(25節)。キリスト者の人生は恵によって導かれる楽しさに満ちている。それは、努力と思われるところもあるだろうが、神の賜物を味わい、喜ぶ人生である。今日も、主の恵みの中に歩ませていただくこととしよう。




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