<朝のディボーション>
2節、「私の祈りが、御前への香として、私が手を上げることが、夕べのささげ物として立ち上りますように。」この詩篇は、初代教会において夕礼拝のために用いられてきたという。「香」はヘブル語でケトレス、いけにえの香ばしい香りを意味する。また「夕べのささげ物」はヘブル語でミンハス・エレブ、「夕方の穀物のささげ物」を意味する。つまり一日の労働の実を振り返り、主にお献げする、姿勢がそこに現されている。大切なことである。一日の労を終えて、主の御前にどんな働きをしたか。主に献げられるような働きをしたか。主がその働きの実の香ばしい香りを受け入れられ、よしとされる働きであったのか、考えさせられるところではないか。朝ごとに、夕ごとに、祈りの香を炊き主を仰ぐ、そんな習慣が初代教会にはあったが、それは儀式以上の意味を持つ。私たちの生き方の姿勢を、朝ごとに、夕ごとに探られる、そんな時である。
さて、3節より、詩人は誘惑から守られるように、と祈る。彼が感じている誘惑は、悪人の道に倣わないこと、また、苦言に耳を傾ける柔軟さを失わないことである。かつて、時代劇に、「そんな事をなされては、お殿様になられた時に、傷がつきますぞ」といさめられて、身を慎むことを教えられる若殿のシーンを見かけたことがあるが、考え方は似ている。私たちは神の子であり、やがて神の国に迎え入れられる王として扱われている。私たちがこの世で、なすあれやこれやについては、しばしば私たちの人生を汚すだけで、ことに、困難にあって自暴自棄になることは、他ならぬ自分自身を傷つけるだけなのだ。人生には、いつでも慎み深い歩みが必要なのであって、いつでも神を信頼し、神への祈りを絶やさず(2節)、自分の口を守り(3節)、そして、悪者に迎合することのない歩みを心がけ、日々自分の働きの実を主に献げられるように歩むことだろう(4節)。持つべきは、愛情をもって真実を語り、一緒に神の道に歩む友である。5節後半はわかりにくい。しかし原文の直訳は「なぜならなおも私は祈っている。悪の中にあって」となるから、詩人の信仰が表明される一文ととることができる。
<夜のディボーション>
6、7節も意味が掴みにくい。本来ヘブル語の写本本文が種々乱れ翻訳不能とする者もいる。「岩のかたわらに投げ落とされた」は、古代の死刑法を意味する。これが一体誰のことを言っているのか、裁判官のことか、それとも詩人を含めた義人のことか。種々の説で分かれるところであるが、私的には、新改訳のように6節後半を支配者への皮肉として捉えるのは不自然で、むしろ新共同訳のように原文の流れに沿って、6節前半は嘆願として、そして6節後半と7節は、支配者たちが義人たちにした悪行を語っている捉えたい。つまりどんなに詩人たち主に従う者たちがどんなに厳しい迫害を受けていたか、それは、木こりが木を切る時に木くずが飛び散るように、主に従う者の骨が地上に散らされるようなものであった、というわけである。
この詩篇全体の流れからすれば、悪が蔓延る中で、悪に迎合せず、忠言を受け入れ歩む純真な信仰者の願いと、その信仰者に加えられる激しい迫害の危険の中にあっても、なお神に目を向け続けて歩む詩人の信仰が語られている。自分の窮地や苦悩にでもなく、悪者の悪行や繁栄にでもなく、ただ神に目を向け、淡々と夕べになれば自分の働きの実を思いつつ、祈りの香をささげていく。悪い者は自ら設けた罠に陥って滅びていく。悪い時代は過ぎ去るものである。いつでも神に期待して歩ませていただこう。
2節、「私の祈りが、御前への香として、私が手を上げることが、夕べのささげ物として立ち上りますように。」この詩篇は、初代教会において夕礼拝のために用いられてきたという。「香」はヘブル語でケトレス、いけにえの香ばしい香りを意味する。また「夕べのささげ物」はヘブル語でミンハス・エレブ、「夕方の穀物のささげ物」を意味する。つまり一日の労働の実を振り返り、主にお献げする、姿勢がそこに現されている。大切なことである。一日の労を終えて、主の御前にどんな働きをしたか。主に献げられるような働きをしたか。主がその働きの実の香ばしい香りを受け入れられ、よしとされる働きであったのか、考えさせられるところではないか。朝ごとに、夕ごとに、祈りの香を炊き主を仰ぐ、そんな習慣が初代教会にはあったが、それは儀式以上の意味を持つ。私たちの生き方の姿勢を、朝ごとに、夕ごとに探られる、そんな時である。
さて、3節より、詩人は誘惑から守られるように、と祈る。彼が感じている誘惑は、悪人の道に倣わないこと、また、苦言に耳を傾ける柔軟さを失わないことである。かつて、時代劇に、「そんな事をなされては、お殿様になられた時に、傷がつきますぞ」といさめられて、身を慎むことを教えられる若殿のシーンを見かけたことがあるが、考え方は似ている。私たちは神の子であり、やがて神の国に迎え入れられる王として扱われている。私たちがこの世で、なすあれやこれやについては、しばしば私たちの人生を汚すだけで、ことに、困難にあって自暴自棄になることは、他ならぬ自分自身を傷つけるだけなのだ。人生には、いつでも慎み深い歩みが必要なのであって、いつでも神を信頼し、神への祈りを絶やさず(2節)、自分の口を守り(3節)、そして、悪者に迎合することのない歩みを心がけ、日々自分の働きの実を主に献げられるように歩むことだろう(4節)。持つべきは、愛情をもって真実を語り、一緒に神の道に歩む友である。5節後半はわかりにくい。しかし原文の直訳は「なぜならなおも私は祈っている。悪の中にあって」となるから、詩人の信仰が表明される一文ととることができる。
<夜のディボーション>
6、7節も意味が掴みにくい。本来ヘブル語の写本本文が種々乱れ翻訳不能とする者もいる。「岩のかたわらに投げ落とされた」は、古代の死刑法を意味する。これが一体誰のことを言っているのか、裁判官のことか、それとも詩人を含めた義人のことか。種々の説で分かれるところであるが、私的には、新改訳のように6節後半を支配者への皮肉として捉えるのは不自然で、むしろ新共同訳のように原文の流れに沿って、6節前半は嘆願として、そして6節後半と7節は、支配者たちが義人たちにした悪行を語っている捉えたい。つまりどんなに詩人たち主に従う者たちがどんなに厳しい迫害を受けていたか、それは、木こりが木を切る時に木くずが飛び散るように、主に従う者の骨が地上に散らされるようなものであった、というわけである。
この詩篇全体の流れからすれば、悪が蔓延る中で、悪に迎合せず、忠言を受け入れ歩む純真な信仰者の願いと、その信仰者に加えられる激しい迫害の危険の中にあっても、なお神に目を向け続けて歩む詩人の信仰が語られている。自分の窮地や苦悩にでもなく、悪者の悪行や繁栄にでもなく、ただ神に目を向け、淡々と夕べになれば自分の働きの実を思いつつ、祈りの香をささげていく。悪い者は自ら設けた罠に陥って滅びていく。悪い時代は過ぎ去るものである。いつでも神に期待して歩ませていただこう。