人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

聖書通読の積み重ねは、モノの見方を変え、人生を前に進む勇気を与えてくれます。ご一緒にしませんか?

詩篇141篇

2013年08月31日 15時51分04秒 | 詩篇
<朝のディボーション>
 2節、「私の祈りが、御前への香として、私が手を上げることが、夕べのささげ物として立ち上りますように。」この詩篇は、初代教会において夕礼拝のために用いられてきたという。「香」はヘブル語でケトレス、いけにえの香ばしい香りを意味する。また「夕べのささげ物」はヘブル語でミンハス・エレブ、「夕方の穀物のささげ物」を意味する。つまり一日の労働の実を振り返り、主にお献げする、姿勢がそこに現されている。大切なことである。一日の労を終えて、主の御前にどんな働きをしたか。主に献げられるような働きをしたか。主がその働きの実の香ばしい香りを受け入れられ、よしとされる働きであったのか、考えさせられるところではないか。朝ごとに、夕ごとに、祈りの香を炊き主を仰ぐ、そんな習慣が初代教会にはあったが、それは儀式以上の意味を持つ。私たちの生き方の姿勢を、朝ごとに、夕ごとに探られる、そんな時である。
 さて、3節より、詩人は誘惑から守られるように、と祈る。彼が感じている誘惑は、悪人の道に倣わないこと、また、苦言に耳を傾ける柔軟さを失わないことである。かつて、時代劇に、「そんな事をなされては、お殿様になられた時に、傷がつきますぞ」といさめられて、身を慎むことを教えられる若殿のシーンを見かけたことがあるが、考え方は似ている。私たちは神の子であり、やがて神の国に迎え入れられる王として扱われている。私たちがこの世で、なすあれやこれやについては、しばしば私たちの人生を汚すだけで、ことに、困難にあって自暴自棄になることは、他ならぬ自分自身を傷つけるだけなのだ。人生には、いつでも慎み深い歩みが必要なのであって、いつでも神を信頼し、神への祈りを絶やさず(2節)、自分の口を守り(3節)、そして、悪者に迎合することのない歩みを心がけ、日々自分の働きの実を主に献げられるように歩むことだろう(4節)。持つべきは、愛情をもって真実を語り、一緒に神の道に歩む友である。5節後半はわかりにくい。しかし原文の直訳は「なぜならなおも私は祈っている。悪の中にあって」となるから、詩人の信仰が表明される一文ととることができる。
<夜のディボーション>
 6、7節も意味が掴みにくい。本来ヘブル語の写本本文が種々乱れ翻訳不能とする者もいる。「岩のかたわらに投げ落とされた」は、古代の死刑法を意味する。これが一体誰のことを言っているのか、裁判官のことか、それとも詩人を含めた義人のことか。種々の説で分かれるところであるが、私的には、新改訳のように6節後半を支配者への皮肉として捉えるのは不自然で、むしろ新共同訳のように原文の流れに沿って、6節前半は嘆願として、そして6節後半と7節は、支配者たちが義人たちにした悪行を語っている捉えたい。つまりどんなに詩人たち主に従う者たちがどんなに厳しい迫害を受けていたか、それは、木こりが木を切る時に木くずが飛び散るように、主に従う者の骨が地上に散らされるようなものであった、というわけである。
この詩篇全体の流れからすれば、悪が蔓延る中で、悪に迎合せず、忠言を受け入れ歩む純真な信仰者の願いと、その信仰者に加えられる激しい迫害の危険の中にあっても、なお神に目を向け続けて歩む詩人の信仰が語られている。自分の窮地や苦悩にでもなく、悪者の悪行や繁栄にでもなく、ただ神に目を向け、淡々と夕べになれば自分の働きの実を思いつつ、祈りの香をささげていく。悪い者は自ら設けた罠に陥って滅びていく。悪い時代は過ぎ去るものである。いつでも神に期待して歩ませていただこう。

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詩篇140篇

2013年08月30日 07時37分32秒 | 詩篇
<朝のディボーション> 
表題は、「ダビデの賛歌」とあるが、ダビデ自身によるものではなく、「ダビデ風の賛歌」とされる。作詞年代もわかっていない。
まず詩人は、悪者からの救いを祈っている。「よこしまな者」「暴虐な人」はいずれも、集合名詞で、特定の人物を指しているわけではない。一般的な言い方である。彼らは、心と行為(2節)、そして言葉も(3節)悪で満ち、いつでも人を押し倒そうと狙っている、というわけである。しかし、注意すべきことは、パウロはこのことばをローマ書に引用していることだ(3:13)。パウロは悪者を、罪人と解釈した。つまり悪者は他ならぬ私自身のことなのである。そして「私たちは他の人にまさってはいない、ユダヤ人もギリシヤ人もすべての人が罪の下にあるのだ」と語る。
この詩篇をこのように自分自身に当てはめて読むのには、実のところ勇気がいる。自分の心と行為、そして言葉に悪が満ちている、自分は人を愛する者などではなく人を攻撃する者である、神に守られる者なのではなく裁かれるべき者である、誰もそんな風に自分を考えたくはないものだ。サタンがアダムとエバに囁き、神のことばを信じるようにではなく神を疑うようにけしかけているが、自分がそんな者であるとは決して思わないのが人間である。しかしそれが私たちの現実であることを素直に認めていく必要がある。「自分は蛇のような者であり、その唇の下にはまむしの毒がある」、そのように素直に認められるなら、クリスチャンとしての第一歩も踏み出せるようになる。そこができないと、いつまでも善人ぶったクリスチャンもどきにしかなりえない。悔い改めは、私たちが神を信じない者であること、そして人にも神を信じさせようとしない者であることを深く認識して初めてできることである。そうしたしっかりとした罪意識が、私たちの人生を大きく変え、霊的に成長させる。
後半、自分を悪者の立場において読むと、なかなかきついものがある。「燃えている炭火が彼らの上にふりかかりますように」「彼らが立ち上がれないようにしてください」(10節)「わざわいが暴虐の者を急いで捕らえるようにしてください。」(11節)自分がそのように、神に祈願されている、などなかなか受け入れ難い。しかし、実際にはそのような者であるのだし、そのような者だったのである。そういう意味から、私たちはいかに自分たちが謙虚であらねばならぬかを教えられる。
<夜のディボーション>
さてこの詩は、サウルからの攻撃下にあった時に歌われた詩篇7篇やアブシャロムの謀反の時に詠まれた詩篇64篇とも似ており、パウロの引用とは別に苦難にある者の祈りと読むこともできる。
しばしば悔い改め、神の前に生きようとする私たちに、悪者、暴虐の者が立ちはだかる時がある。彼らは弱くなった私たちの心を、揺さぶり、傷つけ、悲しませ、落胆させ、神のことばにより頼むことを愚かだとすら思わせることだろう。悪者の横暴、暴虐の者の攻撃に容赦はない。だが、そのような時にこそ、敢えて神の言葉を信頼し、告白したい。「私は知っています。主は悩む者の訴えを支持し、貧しい者に、さばきを行われることを。 まことに、正しい者はあなたの御名に感謝し、直ぐな人はあなたの御前に住むでしょう。」と(13,14節)。どんな状況にあっても、決して信仰を捨ててはならない。むしろ最後まで神のことばにより頼むことに、敢えて拘ってみたい。神は必ず最善をなすお方である。

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詩篇139篇

2013年08月29日 05時16分56秒 | 詩篇
四日間お休みしました。PCが使えないモンゴル、ダタルに行っていました。今朝ウランバートルまで戻ってきました。大雨と雪のためにバスが運休、片道15時間かけて、タクシーを乗り継いで帰ってきました。途中ボンネットまで沈みながらタクシーで川を渡り、モンゴルの大草原をひたすら走り続ける、ワイルドな15時間でした。明日帰国予定で、通常配信に戻ります。

<朝のディボーション>
 創世記1:1には、「初めに神が天と地を創造した」とある。これは、「初めに天と地を創造した神」がおられる、と理解すべきものである。つまり、神がどういう方であるかということを、聖書を通じて理解すべきであり、この詩篇139篇は、その神についての理解を深めさせてくれる極めて重要な詩篇である。
 1節「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそは、私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます」私たちが信じている神は、全知の神である。すべてを知っておられる。人の立ち居振る舞いのみならず、口を開く前に言いたいと思っていることをすでに知っている(4節)という。「さとり」という昔話があったが、神は、私たちの内に隠された思いを先に見抜くお方である。
 そして第二に、神は遍在である。「私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。私はあなたの御前を離れてどこへのがれましょう」(7節)。神はどこにでもおられる。神の視野から逃れて身を隠すことはできない。たとえ、天にのぼろうと、死の世界に下ろうと、神はおられる。神には闇も通じない。かつてアダムは、罪を犯した時に、神の裁きを恐れて、身を隠そうとした。しかし、神はアダムがおられた所を知っておられた。一方、イエスは、神を礼拝する場所は、この山でもなく、エルサレムでもない、真の礼拝者たちが霊とまことをもって礼拝する(ヨハネ4:23)と、教えられた。どこであれ、たとえ最悪に思わされる状況に置かれていても、心から神を呼び求めるならば、そこに神も共におられることを私たちは悟らされる。神は遍在であり、神の手が短く、私たちに届かぬことはない。
<夜のディボーション>
 第三に、神は全能である。「あなたが私の内蔵を造り、母の胎のうちで私を組みたてられたからです」(13節)。神は私たちを無から生み出したお方である。そして神は、私たちがこの地上に生まれいずることをよしとされた。許可したというのではない。私たちがこの世に生まれてくることを、良いこと、喜ばしいこと、素晴らしいことと受け止められた。私たちの存在を歓迎される神がいる。そして「あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました」(16節)とあるように、私たちの人生に神の良い目的を思い巡らされた。それはちょうど、親たちが生まれたばかりの我が子を抱き、その将来のよき歩みを、祝福の人生を巡らし願うのと同じであろう。
 17節、18節は、リビングバイブルの意訳が面白い。「あなたは一日に、かぞえきれないほど何度も、私のことを思い起こしてくださるのです。朝、私がまどろみから覚めるころにも、まだ私に思いを馳せていてくださるのです」好きな人のことは、日に何度でも思い起こすものだろうし、まず真っ先に心に巡らすものだろう。神は、これほどまでに私たちを愛し、私たちに寄り添うのだという。聖書の神は、神社仏閣に行かなければお会いできないような神ではない。むしろ、どこにでも、私たちがおられるところに、いつでも寄り添ってくださっている。惚れ込んでくださるかのように、人を大事にされる。そんな方がいることも知らずに人生を歩み続けてきたことはないだろうか。
 人生の悪に躓き、自分はただ一人だと思い続けてきたことはないだろうか。私たちを愛する神が、悪人の繁栄を許すわけがない。自身の思いを率直に語るべき方がいる。そして神がよしとされた人生、神が喜ばれた私自身であることができるように、と願うことのできる幸いがある。もし、迷っていることがあるなら、素直に神の助けと導きを祈ろう。

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詩篇138篇

2013年08月29日 05時13分49秒 | 詩篇
<朝のディボーション>
 表題は「ダビデによる」である。145篇まで続くダビデ詩篇集の最初のものとされるが、2節の「聖なる宮」をエルサレム神殿と考えれば、ダビデの作であろうはずがなく、後代、つまり捕囚帰還後、ダビデ風に作られたものと考えられてもいる。実際、2サムエル記7:18-29にあるダビデの祈りを思い浮かべる、詩篇でもある。
 さてこの時詩人は、宮にはいなかったのだろう。宮に「向かって」礼拝し、神の恵みとまことの故に感謝している。「ご自分のすべての御名のゆえに」は、直訳は「御名の上に」である。意味的には、新共同訳のように感謝の根拠が「すべてにまさって」「みことばを高くあげられた」ことで、誰の目にも明らかなように、神はご自身の約束の数々を確かに果たされたことを意味する。神がおられ、神が確かに、私たちの支えとなり守りとなり、祝福となっておられることが周知される。これこそが私たちの求めるところでもある。「呼んだその日に答えてくださる」(3節)も、感謝の根拠となる。
 そういう意味では、この詩人は、神が自分にかかわってくださった過去を思いめぐらしながら、自分の未来に対する信仰を抱いている。この時、詩人がどのような苦難にあったのかはわからない。しかし、詩人がこの詩の中で求めていることは、
1) 謙遜な者に目を留めてくださること(6節)
2) 四方八方から責められるような苦しみの中で、神が無事救い出してくださること(7節)
3) 敵の怒りに対して、神が報復してくださること(7節)
4) 神が自分自身に対する計画を実現してくださること(8節)
である。
<夜のディボーション>
 そしてこれらを神に求める根拠として詩人が語ることは、「あなたの恵みはとこしえにあります。あなたの御手のわざを捨てないでください」(8節)。つまり、神は恵み深いことと、私たちが神の御手によって造られた者であること、つまり私たちが神によって生み出された者であることだ。実に、神をあわれみ深いお方としてとらえていく。そして自分を生んでくださったお方としてとらえていく時に、私たちは、神への守りと、神による報復と、神のご計画に自分を委ねていくことができる。
 聖書の神は、創世記1:1にあるように、「すべての初めに天と地を創造された」お方であり、私たちを生んでくださったお方である。私たちの父である。ヘルムート・ティリケは、「祈りにおいて何よりも重要なことは、神と父と子という関係に結ばれている、関係の確認である」と語った。詩人も、神とは、父と子である関係を確認して、神への期待を抱いている。
父である神に我が心を率直に語らせていただこう。神の前に遜り無一文の気持ちであることを語らせていただこう。四方八方から責められる窮状において、救い出してくださることを願おう。私たちに対して憤りをあらわにする者、怒りをぶちまける者に神が報復してくださるように、と神の怒りに委ねよう。そしてただ神が私たちに持っておられる計画を実現してくださるように、と願おう。私たちの人生には神の計画がある。私たちの人生はまだ終わりではない。中途崩れで工事無期延期あるいは廃止になるのでもない。神がそれを速やかに成し遂げてくださるように、そして私たちがこの世に生み出された意味を見出し、心に喜びと感謝を抱くことができるように、祈ろうではないか。

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詩篇137篇

2013年08月29日 05時10分57秒 | 詩篇
<朝のディボーション>
 1節、「バビロン川のほとり、そこで私たちはすわり」とある。この詩は、捕囚先で起こった出来事を記しているようである。というのは、捕囚帰還後そこで起こった出来事を回想して詠っているとも解せるからだ。作詞年代はよくわかっていない。しかし、この詩は何か、戦争の傷跡、悲しさを感じさせる。最後は憤りすらかきたててくるところがある。
 バビロニヤに捕囚として連れ去られた時に、余興としてエルサレムの歌を歌えと絡まれる、こうした経験は、日本がアジアの国を占領した時にもあったのではないか。あるいは日本が戦争に負けて、ここモンゴルの地に強制労働者として抑留された時も、そのようなことがあったのではないか、と考えさせられる。日本人が戦争をした、という歴史はあるが、戦争で蹂躙した、敗退した、という内容は、学校教育ではあまり良く教えられていない。こうして旅をしながら知れるところもある。ともあれ、敵国の人間に絡まれ、遊びの余興に、大事な心の歌を歌えと求められる、ということがあった。しかも、イスラエル人にとってそれは、ただ讃美歌のメロディを楽しむ以上に、「歌詞」を求めるものなのである。敵国に征服され、奴隷とされている今、神の大能と恵みを歌うその歌は何とも無力さを覚えさせられるものであり、そんな要求には応じられないと思うものだったことだろう。
 7節以降は、その敵国の横暴とそれに加担したエドム人に対するのろいが語られる。聖書の中のこのような呪いをどのように考えればよいのか。「(敵の)赤ん坊を岩に投げつける人に、祝福があるように」(9節)。こんな暴言をどのように考えればよいのか。クリスチャンに、このような暴言は許されているのか?
 しかし、このような激しい感情の発露は、神もまた感じておられることなのではないだろうか。つまり、彼らの恥は、神の恥であり、彼らの憤りは神の憤りであり、彼らののろいは神ののろいであるということである。
<夜のディボーション>
 神もまた、バビロンの川のほとりですわり、泣いている彼らの気持ちをわかっておられる。神もまた、余興で主の歌を歌うようにと強要され、悲しんだ彼らの気持ちを知っておられる。彼らがどれほど、エルサレムを熱望し、敵に対して激しい怒りと憤りを抱いているのかをわかっておられる。
 黙示録の七つの教会へのメッセージを読むとなるほどと思うことがある。エペソの教会に対して、イエスは、「わたしは、あなたの行いとあなたの労苦と忍耐を知っている」(2:2)と語っておられる。しかし原語の流れは「知っている!あなたの行いと、労苦と忍耐を」である。つまりイエスの知っていることに強調がある。同様に、七つの教会に対して、イエスは、スミルナの教会に対しては「知っている!あなたの苦しみと貧しさを!」と言っている。さらにペルガモの教会に対しては「知っている、あなたの置かれた環境を!」と言っている。神は、私たちの行いも、苦しみも貧しさも、そして置かれた状況も、皆知っている!わかっている!というわけである。
 この詩は、単純に読めば、最後には憤りをかきたてようなところがある。しかし、なぜこんなむき出しの感情を歌う詩が、詩編集の中に収められているかといえば、それは、私たちのそのような悲しみ、怒り、憤りを、神もまた感じておられることを、詩人も感じたからなのだろう。ただひたすら、神に自分の気持ちを打ち明けるべきことを教えられる。神は知っておられるのである。共感される神を知り味わう時を持ちたいものである。

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