<朝のディボーション>
呪詛詩篇という言い方がある。つまり悪人を呪い、報復を祈る特徴を持つ詩篇で、35篇、69篇とよく似ている。「彼」または「彼ら」という人称代名詞に注目すると、1-5節、6-20節、21-31節と構造的に三つの部分からなることがわかる。初めに三人称複数形の「彼ら」で語られる部分があり、続いて、三人称単数形の「彼」で語られる部分があり、最後に「彼ら」に戻っている。色々な考え方があるようだが、中ほどの6-20節で、「彼」と単数形になるのは、1-5節で語られた悪人たちの代表格を念頭に置いて詠んだためなのだろう。
これを逆に悪人のことばの例を引用した、とする解釈もあるのだが、そうなると使徒の働きでこのことばを引用したペテロの意図が理解し難い。ペテロは、イスカリオテユダに代わる使徒を選出する際に、この詩篇を引用している(使徒1:20)。これを悪人のことばとすれば、ペテロは自分を悪人と同一視し、ユダを単純に呪ったことになるだろう。しかしそうではなく、この詩篇が、69篇同様のメシヤ詩篇で、6-20節は、イエスがどんな苦しみを乗り越えたのかを考えさせる、詩人の悪人に対する複雑な思いを詠んだ、と取れば、ペテロは、そこにイエスの苦しみと真意を読み取り、使徒の補欠選挙に臨んだことになる。
私たちはイエスが、私たちの罪の赦しのために死んでくださった、それは神の恵みであった、とよく語るのであるが、その深さをあまり考えずにいる。イエスも、人間であれば、本来は、「彼の日はわずかとなり、彼の仕事は他人が取り、その子らはみなしごとなり、彼の妻はやもめとなりますように」(8、9節)と毒づきたい弱さもあっただろう。しかし、福音書に、そのようなイエスの弱さも罪も一切記録されてはいない。ただヘブルの著者が「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです」(4:15)と語るのみである。十字架の愛の輝きは、このような呪詛的な痛みを遥かにしのぐものであったことを私たちは悟らなくてはならないのだろう。神の愛は深い。
<夜のディボーション>
2節、「邪悪な口」「欺きの口」、詩人は嘘偽りで封じ込められている。「憎しみのことば」ということばの暴力にさらされている。4節「なじる」は、サーターン。私にサタンとなる、つまり、法廷で悪魔的な告発者となっていることを意味する。しかもそれらは愛への報いである。つまり詩人は恩を仇で返されるような事態にある。こんな状況にあっては、ただひたすら神に祈るだけである。そうしたことばを封じることもできないし、巻き返しをはかることもできない、ことがある。
そのような時は、内側で傷ついた心を、素直に神に申し上げるのがよい。それは、しばしば6-20節にあるように、激し過ぎることばになるかもしれない。しかし、それが私たちの心の現実ではないか。どんなに善人ぶっても、人の心の闇は深い。人の復讐心は激しく、止まる事を知らない。世の中の争いが、醜く、どろどろになるのは、人の心の闇の深さの故である。
だからこそ、どこかで、人の心は切り替えられなければ決して物事は良い方向には向かない。ただ毒を吐き出すだけではなく、「あなたの恵みは、まことに深いのですから私を救い出してください」という主の恵みによって心癒され、立ち直させられるところへ導かれなくてはならない。神に敵を委ねられる心の癒しと恵みを体験するのである。主が乗り越えられた十字架愛の輝きに到達させられることである。主の救いの深さを味わおう。
呪詛詩篇という言い方がある。つまり悪人を呪い、報復を祈る特徴を持つ詩篇で、35篇、69篇とよく似ている。「彼」または「彼ら」という人称代名詞に注目すると、1-5節、6-20節、21-31節と構造的に三つの部分からなることがわかる。初めに三人称複数形の「彼ら」で語られる部分があり、続いて、三人称単数形の「彼」で語られる部分があり、最後に「彼ら」に戻っている。色々な考え方があるようだが、中ほどの6-20節で、「彼」と単数形になるのは、1-5節で語られた悪人たちの代表格を念頭に置いて詠んだためなのだろう。
これを逆に悪人のことばの例を引用した、とする解釈もあるのだが、そうなると使徒の働きでこのことばを引用したペテロの意図が理解し難い。ペテロは、イスカリオテユダに代わる使徒を選出する際に、この詩篇を引用している(使徒1:20)。これを悪人のことばとすれば、ペテロは自分を悪人と同一視し、ユダを単純に呪ったことになるだろう。しかしそうではなく、この詩篇が、69篇同様のメシヤ詩篇で、6-20節は、イエスがどんな苦しみを乗り越えたのかを考えさせる、詩人の悪人に対する複雑な思いを詠んだ、と取れば、ペテロは、そこにイエスの苦しみと真意を読み取り、使徒の補欠選挙に臨んだことになる。
私たちはイエスが、私たちの罪の赦しのために死んでくださった、それは神の恵みであった、とよく語るのであるが、その深さをあまり考えずにいる。イエスも、人間であれば、本来は、「彼の日はわずかとなり、彼の仕事は他人が取り、その子らはみなしごとなり、彼の妻はやもめとなりますように」(8、9節)と毒づきたい弱さもあっただろう。しかし、福音書に、そのようなイエスの弱さも罪も一切記録されてはいない。ただヘブルの著者が「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです」(4:15)と語るのみである。十字架の愛の輝きは、このような呪詛的な痛みを遥かにしのぐものであったことを私たちは悟らなくてはならないのだろう。神の愛は深い。
<夜のディボーション>
2節、「邪悪な口」「欺きの口」、詩人は嘘偽りで封じ込められている。「憎しみのことば」ということばの暴力にさらされている。4節「なじる」は、サーターン。私にサタンとなる、つまり、法廷で悪魔的な告発者となっていることを意味する。しかもそれらは愛への報いである。つまり詩人は恩を仇で返されるような事態にある。こんな状況にあっては、ただひたすら神に祈るだけである。そうしたことばを封じることもできないし、巻き返しをはかることもできない、ことがある。
そのような時は、内側で傷ついた心を、素直に神に申し上げるのがよい。それは、しばしば6-20節にあるように、激し過ぎることばになるかもしれない。しかし、それが私たちの心の現実ではないか。どんなに善人ぶっても、人の心の闇は深い。人の復讐心は激しく、止まる事を知らない。世の中の争いが、醜く、どろどろになるのは、人の心の闇の深さの故である。
だからこそ、どこかで、人の心は切り替えられなければ決して物事は良い方向には向かない。ただ毒を吐き出すだけではなく、「あなたの恵みは、まことに深いのですから私を救い出してください」という主の恵みによって心癒され、立ち直させられるところへ導かれなくてはならない。神に敵を委ねられる心の癒しと恵みを体験するのである。主が乗り越えられた十字架愛の輝きに到達させられることである。主の救いの深さを味わおう。