【シーズン6】人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

聖書通読は、モノの見方を変え、イエスと共に前に進む気を起こさせてくれます。ご一緒にしませんか?

詩篇109篇

2013年07月31日 06時47分02秒 | 詩篇
<朝のディボーション>
 呪詛詩篇という言い方がある。つまり悪人を呪い、報復を祈る特徴を持つ詩篇で、35篇、69篇とよく似ている。「彼」または「彼ら」という人称代名詞に注目すると、1-5節、6-20節、21-31節と構造的に三つの部分からなることがわかる。初めに三人称複数形の「彼ら」で語られる部分があり、続いて、三人称単数形の「彼」で語られる部分があり、最後に「彼ら」に戻っている。色々な考え方があるようだが、中ほどの6-20節で、「彼」と単数形になるのは、1-5節で語られた悪人たちの代表格を念頭に置いて詠んだためなのだろう。
これを逆に悪人のことばの例を引用した、とする解釈もあるのだが、そうなると使徒の働きでこのことばを引用したペテロの意図が理解し難い。ペテロは、イスカリオテユダに代わる使徒を選出する際に、この詩篇を引用している(使徒1:20)。これを悪人のことばとすれば、ペテロは自分を悪人と同一視し、ユダを単純に呪ったことになるだろう。しかしそうではなく、この詩篇が、69篇同様のメシヤ詩篇で、6-20節は、イエスがどんな苦しみを乗り越えたのかを考えさせる、詩人の悪人に対する複雑な思いを詠んだ、と取れば、ペテロは、そこにイエスの苦しみと真意を読み取り、使徒の補欠選挙に臨んだことになる。
私たちはイエスが、私たちの罪の赦しのために死んでくださった、それは神の恵みであった、とよく語るのであるが、その深さをあまり考えずにいる。イエスも、人間であれば、本来は、「彼の日はわずかとなり、彼の仕事は他人が取り、その子らはみなしごとなり、彼の妻はやもめとなりますように」(8、9節)と毒づきたい弱さもあっただろう。しかし、福音書に、そのようなイエスの弱さも罪も一切記録されてはいない。ただヘブルの著者が「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです」(4:15)と語るのみである。十字架の愛の輝きは、このような呪詛的な痛みを遥かにしのぐものであったことを私たちは悟らなくてはならないのだろう。神の愛は深い。
<夜のディボーション>
2節、「邪悪な口」「欺きの口」、詩人は嘘偽りで封じ込められている。「憎しみのことば」ということばの暴力にさらされている。4節「なじる」は、サーターン。私にサタンとなる、つまり、法廷で悪魔的な告発者となっていることを意味する。しかもそれらは愛への報いである。つまり詩人は恩を仇で返されるような事態にある。こんな状況にあっては、ただひたすら神に祈るだけである。そうしたことばを封じることもできないし、巻き返しをはかることもできない、ことがある。
そのような時は、内側で傷ついた心を、素直に神に申し上げるのがよい。それは、しばしば6-20節にあるように、激し過ぎることばになるかもしれない。しかし、それが私たちの心の現実ではないか。どんなに善人ぶっても、人の心の闇は深い。人の復讐心は激しく、止まる事を知らない。世の中の争いが、醜く、どろどろになるのは、人の心の闇の深さの故である。
だからこそ、どこかで、人の心は切り替えられなければ決して物事は良い方向には向かない。ただ毒を吐き出すだけではなく、「あなたの恵みは、まことに深いのですから私を救い出してください」という主の恵みによって心癒され、立ち直させられるところへ導かれなくてはならない。神に敵を委ねられる心の癒しと恵みを体験するのである。主が乗り越えられた十字架愛の輝きに到達させられることである。主の救いの深さを味わおう。

詩篇110篇

2013年07月30日 06時20分34秒 | 詩篇
<朝のディボーション>
 この詩篇ほど新約に引用された詩編はない。「主は、私の主に仰せられる。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ」(1節)。イエスは、この言葉を用いて、ご自身の神性を明確に主張されている(マタイ22:41-46)。つまり、イエスは、集まっているパリサイ人にキリストはだれの子であるか、と尋ねた。彼らは、当然旧約聖書にあるとおり、「ダビデの子」と答えるのであるが、そこでこの一節を用いて、ではどうしてダビデは、そのキリストを「私の主」と呼んだのか、と踏み込んで質問されている。パリサイ人たちは答えることできなかったが、質問の答えは明らかである。メシヤは人間としてダビデの子ではあるが、同時に神であるからダビデの主であるというわけだ。キリストの神性と人性は一つである。イエスが、公生涯において「ダビデの子」という呼称を、拒まれなかったのは、ご自身がダビデの子孫としてメシヤであり、同時に神であることを理解しておられたからである。
 イエスはこれをダビデの作としたが、旧約研究では必ずしもダビデの作とはみなされていない。しかし、「敵をあなたの足台」とするというのは、完全な征服を象徴することばであるから、イスラエル史の中ではダビデ時代が背景として相応しいだろう。 
次にペテロもまた、この節を引用している(使徒の働き2:34-36)。ペテロは、詩篇16:8-11、89:3、4のメシヤ詩篇とセットにこの節を用い、ダビデが遠い将来に起こるイエスの復活を預言している、と指摘した。自分たちはまさにその証人であると言う(32節)。ペテロは、イエスと同様に、この110篇を、明らかにメシヤ詩篇であり、預言であると解釈した。初代教会の使徒たちの目からすれば、この詩篇は、まさに復活を通して、イエスの王権が確立されたことを象徴的に語っている。2節の「主は、あなたの力強い杖をシオンから伸ばされる。」は、確立されたメシヤの王権について語る。ただ、3節は難解であり、新共同訳の「曙の胎から若さの露があなたに降るとき」の方がわかってわからないような直訳調である。大まかに言いたいことは、民が主の王権を認め、イキイキと力強く仕える様である。まさに初代教会の使徒たちの働きは、朝明けの露のごとし、麗しく、力強いものであった。<夜のディボーション>
さて、ヘブルの著者は、4節を引用して、メシヤのもう一つの側面について指摘する。つまり、メシヤイエスは、人間としては、ダビデの子孫として生まれ、同時に神であり王であるのだが、さらに祭司でもある。つまり、ヘブルの著者がこの詩篇を引用するのは、キリストが永遠の祭司であることを示すためである。イエスは、神として、また王として、私たちの回りに起こるあらゆることを取り扱うことの出来るお方である。しかし同時に、イエスは、祭司として、私たちの心の中にあることを取り扱う事が出来るお方である。私たちの罪のためにとりなし、私たちを神の前に立たせてくださるお方である。
 最後に、ヨハネが黙示録で、5節「御怒りの日」(黙示録6:17)という用語を用いていることに注目しよう。イエスは、神であり、王であり、祭司である。しかし同時に裁き主として、世の終わりに再臨する。「主は国々の間をさば」(6節)くお方として現れる。イエスもペテロも、ヘブルの著者も、すでに公に証されたイエスの性質を語っている。しかし、裁き主としてのイエスは、これからのことである。110篇は、まだ閉じられてはおらず、これから起こることについて触れている。裁き主としてやがて来られるイエスを覚えて、慎みとまことをもった信仰の歩みをさせていただこう。

詩篇108篇

2013年07月29日 06時15分38秒 | 詩篇
<朝のディボーション>
 既にどこかで読んだ詩である。つまり詩篇57:7-11と60:5-12が継ぎ合わされたもので、新しい詩篇ではない。ダビデの賛歌となっているが、第二巻にあるダビデの詩を誰かが捕囚期以降に編集したものではないか、と言われる。
 57篇、60篇、それぞれ作られた背景が違う。時間的な順序としては、57篇が1サムエル記23章あたり、ダビデがサウルにいのちを狙われていた時であり、60篇は、2サムエル記8章、ダビデがサウルに代わって王となり、王国を拡大成長させていた時代のものである。捕囚期後に、そのような詩篇を組み合わせて読んだ意図は、まずは、サウルから逃れて洞窟にいたダビデに、捕囚のイスラエルの姿を重ね、あり得ぬ捕囚からの解放を喜ぶ思いを詠ったのであろう(57章)。そして解放され、町を再建したイスラエルが、これからさらに繁栄する願いを、ダビデ躍進の姿に重ねたのではあるまいか(60章)。
実際、エレミヤやエゼキエルが預言したように、モアブ、エドム、ペリシテは、ユダのバビロン捕囚を喜び、ユダヤ人の敵となった歴史がある(エレミヤ47,48、エゼキエル35)。再びパレスチナに戻って来たユダヤ人たちは、ダビデがモアブ、エドム、ペリシテに勝利し、イスラエルを強国にした時代を思い起こしながら、自分たちのこれからにも主がかつての侮辱を跳ね返し、大いなる繁栄をもたらしてくださることを願い求めた、というわけである。だから、「神によって、私たちは力ある働きをします。神が私たちの敵を踏みつけられます」(13節)という文末のことばに編集者の全ての思いが集約されていることになる。
<夜のディボーション>
 編集されたものにせよ、この詩篇の流れははっきりしている。第一にダビデは神を讃えている(1-6節)。戦いを前に、神を固く信頼し、賛美をもって朝を迎えようとしている。「私の心はゆるぎません」は、新共同訳では、「神よ、わが心は定まりました」である。ヘブル語のナコンは、詩文では、主に神を主語とし神が地を据えられた、定められたことを、語る際に用いられる。また、詩篇93:1では「世界は堅く建てられ、揺らぐことはない」の「堅く建てられ」にそのことばが使われている。つまり、心が主にあって定まり、堅くされたので、ゆらぐことがない、ということになる。神を賛美し、神に感謝できるのは、神が私たちの心になしてくださる素晴らしい御業の故である。神の恵みに素晴らしさ、神の右手の力強さを、味わい知ることが大切なのである。
 第二に、ダビデは神に聴いている(7-9節)。神の語りかけに耳を傾けている。ダビデの賛美に応答するように、神は私たちの賛美に語りかけられる。神は、確かに、全地を支配しておられ、ご自身の権威を示される。イスラエルの民は土地なき者のようであったが、再び土地を所有した。あらゆる戦いに勝利をもたらすのは、神ご自身であって、私たちの力ではない。神はみこころのままに、物事のすべての向きを変えることが出来るお方である。その神に私たちは信頼するのである。
 第三に、ダビデは神に祈っている(10-13節)。人ではなく、神にこそ期待していく。目に見えない神こそ、私たちの祝福の根源である。しかしいつでも、私たちは目に見えるものの後ろ盾をとって安心しやすい。誰か助けがいれば大丈夫だと考えてしまい安い。しかし、「人の救いはむなしい」。たとえ目に見える人の助けがなかろうと、神が共におられること自体に勝利がある。神を信頼してみよう。そこに望み得なき所に望みを見いだす秘訣もある。神の業が自分になされることをこそ願おうではないか。

詩篇107篇

2013年07月28日 06時17分17秒 | 詩篇
<朝のディボーション>
 第5巻、いよいよ詩篇最後の巻となる。1巻、2巻はどちらかというと、ダビデの個人的な苦悩を歌うものが多かったように思う。3,4巻は礼拝詩、5巻も同様に考えてよい。ただ、この巻分けがどのようにして生じたのかはよくわかっていない。ギリシャ語の七十人訳聖書がこの巻分けを採用していることから、少なくともBC2世紀以前には出来ていた巻分けのようである。
 だがこの107篇は、その巻分けとはまるで無関係な始まりとなっている。つまり、4巻の最後106:47には、「私たちの神、主よ。私たちをお救いください。国々から私たちを集めてください」とあるが、107:3には「彼らを国々から、東から、西から、北から、南から、集められた」とあり、まさに106篇の祈願が成就したことへの感謝をもって始まり、連続ものである印象を得るものである。実際105-107篇は、「主に感謝せよ」で始まる感謝詩篇として括られている。
ともあれこれも捕囚帰還を背景として読むことができるものなのだろう。そして、構造的には、繰り返される二種の反復句に注目される。つまりそれは、「この苦しみの時に、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救われた」(6、13、19、28節)と「彼らは、主のめぐみと、人の子らへの久しいわざを主に感謝せよ」(8、15、21、31節)の二つであるが、この反復句を核として、四つないし五つの感謝の恵みが語られていると考えることができる。それらは、旅人の無事(4-9節)、囚人の釈放(10-16節)、病人の回復(17-22節)、船乗りの守り(23-32節)、そして最後は第二部と分けられることもあるが、変則的に農夫の祝福(33-38節)といった具体的な個々への神の恵みが語られているのである。
<夜のディボーション>
当時、荒野で道に迷うことは、自然な生活経験の一つであったことだろう。そこで、神の助けを呼び求めた時に、神はこれを助けられたという。また神のことばに逆らい、神の裁きを受けた囚人。神に見捨てられ、誰も助ける者がなくても不思議ではない人たちが、神に向かって叫ぶと、神は助けられたという。まさにそれは主の恵み、人の子らへの奇しいわざを感謝すべきことである。そして病人。この人たちの場合は普通に病んだわけではない。自分の愚かしい生活の故に病になった人たちである(17節)。けれども、神はそのような病人の叫びを聞き漏らすいやされたという。四番目に船乗り。確かに、大海の中で嵐にまみえた時に、人は困惑する。何日も日を見ることもなく、ただひたすら、暴風と高波に弄ばれる様な事が起こったら、そこにどんな希望があるだろうか。パウロも(使徒27章)、イエスの弟子たちも(ヨハネ6:15-21)同じ経験をしているが、人間のコントロールを超えた脅威に見舞われることがあっても、神は助けてくださるということ、いや神以外に助けはあり得ないという状況で助けがあることを教える。
 最後は、第二部とし総括的に感謝すべき主の恵みを語る、あるいは、これまでの流れに変則的な付加として農夫への恵みを語り継ぐと理解することも可能である。いずれにせよ、神は、荒野を沢に、砂漠を水のわき上がる所に変える、つまり、祝福をもたらすお方である。これが捕囚帰還後の民の歌とされたというのは、単に捕囚からの解放を感謝するものではなく、むしろ帰還後の日常に働く神の恵みを感謝する歌とされたのではあるまいか。そういう意味では、私たちの日々の経験に共感を与える歌である。苦しい時には主に向かって叫び、救いを感謝する、確かな主の恵みに心を留めて歩ませていただこう。

詩篇106篇

2013年07月27日 06時36分17秒 | 詩篇
<朝のディボーション>
 この詩篇は、イスラエルの罪と不誠実さを振り返っている。出エジプトの紅海徒渉での不信仰(6-12節)。荒野の放浪中肉を要求したこと(13-15節:民数記11章)、モーセとアロンに反逆したこと(16-18節:民数16章)、また金の子牛を鋳造したこと(19-23節:出エジプト32章)。そして、再びカナンに近づいた時の二つの失敗、つまり、カデシュ・バルネアで主の約束を信じなかったこと(24-27:民数13章)、バアル・ベオルで偶像礼拝の罪に陥ったこと(28-31:民数25章)。最後にカナンの地定住に続く堕落の出来事(32-46節)を振り返っている。
 詩篇105篇が、族長時代から出エジプトの歴史を振り返り、主が積極的にアブラハム契約を守られたことを認め賛美するものであるとすれば、この106篇は、出エジプトから荒野の生活、そしてカナン定住の堕落の中で、私たちが契約に不忠実であったにもかかわらず、契約を思い起こし、守られ、憐みを注がれた神を認め賛美するものとなっている。つまり、題材に多少のずれはあるが、詩篇105篇は主の側から、詩篇106篇は人間の側から、いずれもアブラハム契約に私たちの心の焦点を合わせるものとなっている。
 イスラエルの歴史は、神を見捨てる反逆の歴史であり、不信仰と不誠実さの繰り返しである。普通は、これほど神に逆らい通す歩みに、どうして神が憐みを施しえようかと思うものだろう。神に見捨てられて当然である。しかし、これほどの反逆の歴史がありながらも、神の憐みは尽きない。神の愛の深さ、強さは私たちの想像を絶している。神の契約を守られる忍耐、頑固さ、執拗さが、私たちの模範でもある。私たちの愛が薄っぺらなのは、この神の愛を理解していないためである。「豊かな恵み」(45節)と一言で簡単にまとめられてしまう、神の愛の深さに触れていないためである。
<夜のディボーション>
23節「もし、神に選ばれた人モーセが、滅ぼそうとする激しい憤りを避けるために、御前の破れに立たなかったなら、どうなっていたことか。」娘が学校で聴いた話をしてくれた。面白い先生がいるという。「風呂の栓のような人間になれ」と熱く語っていた、という。つまり風呂の栓は目立たないが、それなくしては風呂に入れない。目立たないが、なくてはならない存在になれ、というわけだ。なるほど、なんとなくおかしなたとえだが、良くわかるたとえでもある。イスラエルの反逆の歴史の中で、肝心かなめの部分をしっかり守った指導者がいた。誰もかれもが不誠実で愚かな歩みをし、すべてが滅びに向かっているかのように思われる中で、その破れ口を守る働きにリーダーシップが求められることがある。目立つリーダーシップもあるが、目立たないリーダーシップもある。時代を動かし変えるリーダーシップは、後の時代にその価値が認められる目立たない者であったりする。
47節「私たちの神、主よ。私たちをお救いください。国々から私たちを集めてください」明らかにこの詩篇が捕囚帰還後に詠まれたものであることを思わせる一節である。詩人は、イスラエルの完全な回復を祈っている。それは、イスラエルの再建を励ますことを目的に書かれた第一歴代誌7章で、北イスラエルの民が振り返られているのと同じである。つまり、歴代誌の著者は、直接的な読者である南ユダの帰還者だけではなく、彼らよりも150年も昔に滅びてしまった北イスラエルの民を含めた、イスラエル全体の再建をビジョンとして語っている。「国々から私たちを集めてください」自分だけでも、自分たちだけでもなく、主を愛する者が皆集められて再建される喜びを願うこととしよう。