お待たせしました。『ハナちゃんだより(2)』をお届けします。
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注意 : このあと私の出産苦労話が続きますので、出産を控えていらっしゃる方は
無事に出産を終えるまでお読みにならない方がよろしいかと思います。
『ド近眼』と『太め』を除けば、健康体そのものだった私。過去の入院経験といえば、21歳か22歳の時に患った網膜剥離のレーザー治療のための2泊3日の入院のみだった。
だから出産も、ごく普通の自然分娩になるだろうと思っていた。(お産って時間長いし痛くて大変そうだな~、嫌だな~、でも皆もどうにかなっているんだから私も大丈夫だろうな~)みたいな。
ところが! 予定日(12月18日)のちょうど一ヶ月前に、思いもかけない危機に襲われたのでございます。
1995年11月18日は土曜日で、手帳日記によると私はその日、午前中友達にFAXを送り、ランチに親子丼を食べ、午後ケイトーと散歩に行き、クリスマス・ケーキの生地を作った。午後6時過ぎ、その日は一日仕事(自宅でイラストの)だったオットーとシチューののこりで夕食を済ませ、ケーキをオーブンに入れ、ミカンと紅茶を持って病院ドラマ『カジュアルティー』(=Casualty Department=イギリス英語で救急外来のこと)を見るべく居間のソファーに落ち着いた。
直後の午後7時35分頃、何の前触れもなく突然、腹部に激痛が! それまで経験したことのないような、息をつくのがやっと、話すこともままならないような激痛で、ソファーに横に倒れこんだまま身動きできなくなってしまった。(最初オットーは私がふざけているのかと思ったそうで。)
腹痛は弱まらず間隔もないので陣痛ではなさそう。そこで7時50分頃、オットーは診療所に電話。その日の緊急往診の担当だったお医者さんが来てくれ、私の血圧が極度に下がっているため早期胎盤剥離による内出血を疑い、救急車を手配。救急車は8時25分に到着し私は車椅子に乗せられて車内に運ばれたが、車内で手当てにしばらくかかり、(は・や・く・出発してよぅー!!)と内心で叫んでいたのを覚えている。
9時過ぎやっと出発、9時半グロスター・ロイヤル病院に到着。(その間すごく気持ち悪くなり、3回吐いたと日記に書いてある。私は忘れていたが。)
病院に到着するとすぐに「衣服が切り裂かれ、左手の血管を探され、マスクされ、失神」。緊急帝王切開によってムスメは5分後には取り上げられた。
私が救急車に乗ったあと、オットーは帰りの『足』のことを考えて自分の車で救急車を追って病院に来た。私はムスメが生まれたあとも危ない状況にあったのだが、お医者さんからそう説明を受けたとき、オットーは自分でも驚くくらい冷静でいられたとか。そのためお医者さんに「ずいぶん落ち着いておられますね」と言われたそう。「今思うと、あの時は急な展開にびっくりして神経が麻痺していたんだと思う」と、後日本人は申しておりました。
ムスメは予定日より30日早く生まれ、体重も2665gと小さめだったので、大事をとって最初の晩は保育器に入れられた。
翌日の11月19日(日)。オットーが耳元で “It's a girl. She's beautiful.”とささやいたような気がしたけど、夢を見ているんだと思った。
後から訊いたら、私が麻酔から一時さめかけた午前9時頃にそう言ったのだそうだ。
その時オットー、力なく横たわる私を見ながら約25年ぶりに泣いたって、後で告白してくれた
こんな状態でICUにいたんだもの、これ見て泣かなきゃヒトじゃない!?
(↑待てよ・・・オットーってば①カメラ持ってきて②写真撮る心の余裕はあった、ってことじゃんか)
「目を開け時計を見たら午後1時。ノドに入っていたチューブのせいで、ノドが痛い。なぜか右カカトも。」 ・・・右のカカトの痛み、その後も一週間くらい消えなかった。まるで長時間、ひどくひねった状態で固定されていたみたいな痛みだった。何だったんだろう???
「麻酔からさめかけなので、やたら眠い。2時頃オットーが来てくれたけど、ささやき声でしかしゃべれず。頭も半分モーロー。5室あるICUの1室にいた。いろんなモニター装置があり、両腕にチューブ、鼻にもチューブが入って、トドのように横たわるのみ。オットー、時々うとうと眠りかけてしまう私に話しかけながら、7時40分頃までいてくれた。」
オットーはこの日、異常がないのでめでたく保育器を卒業したムスメを初めて抱っこさせてもらった。看護師さんが撮ってくれたポラロイドを2枚。
左の写真に書き込んであるD.O.B.18.11.95@21.35hrs というのは誕生日(Date of Birth)が1995年11月18日21時35分という意味です。
右の写真の書き込み 1st Cuddle + 20mls milk は、親(つまりオットー)に初めて抱っこされ(クビを締められているのではない)ミルクを20mlもらった、という意味。
長いこと妊娠してたのは私なのに、オットー、いいとこ取りやんかー!
産科は別棟で病院の本棟から離れていたので、生まれたあとハナは産科に運ばれ、私は本棟のICUにいた。
20日になって、オットーと助産婦さんがハナを乳母車(これって死語?)に乗せて連れてきてくれ、初めての対面。
「無事でよかったね、と思ったら涙が溢れた。」
21日の午後、私も産科の個室(ラッキー)に移ることができた。この日からハナは日中は私の部屋で一緒に過ごせるようになった。
私はまだ立って歩けなかったので、ハナの世話はすべて看護師さんがしてくれた。
イギリスの病院は、キビシイ。早く回復するには、できるだけ早く立って歩いて元通りの生活をするのが一番、という考えみたい。私も22日には看護師さんに助けてもらって初めてトイレに行き、ハナの沐浴指導を受け、23日にはシャワーを浴びた。授乳や二度目の沐浴やポンプを使っての搾乳の指導も受け、どんどん忙しくなっていった私。26日、つまり緊急開腹手術の8日後には退院した。(日本の病院なら自然分娩でも一週間くらいは入院するんだから、私のようなケースなら最低でも二週間はおいてくれるのがフツウじゃないのぉ!!?)と信じられない思いだった。
さて、肝心の私の突然の内出血の原因ですが。病院に頼んで2ヶ月後にコンサルタント(お医者さんの中でも格別に偉い、ボスみたいな人?)に話を聞かせてもらったところ、原因は「不明」だそうです。
救急車で病院に着いた私はすぐに眠らされ、ハナは緊急帝王切開で無事誕生。ところが胎盤には異常なかったのに、まだどこかで出血していて体温も危険な状態まで下がり、7ユニット(約4ℓ)もの輸血が必要だったそうです。
調べてみると「胃の後ろにある静脈から出血が続いているらしい」ので、私のお腹は続けて縦に長く切開されました。
が、出血箇所を探して奮闘?するうちなぜか出血は止まり血圧も落ち着いたので、(???)で頭の中を満杯にしながら、何の処置も施さないままお腹を縫合したそうです。
なにぶん緊急だったもので、ゆるやかなスマイル状の帝王切開の傷跡は横に約22cm。約30cmあるタテの傷跡は胸のくぼみのすぐ下から始まっておヘソの横を通り帝王切開の傷跡に達しているので、私のお腹には、大きな錨のマークみたいな立派な手術跡がのこりました。ビキニを着たことはなかったし、これからも着たいとは決して思わないような体型でよかったと、この時ほど思ったことはありませんでしたよ。ホント。
コンサルタントによると、私のような症例は「過去に見たことも聞いたこともない」し、「妊娠が関係していたとも考えられない」そうです。本当に珍しい例だから「また妊娠しても、きっと大丈夫」とのことでした。
実際には、育児ってすごーく大変だったしオットーも私も「子供は一人でいいね」と意見が一致したので、もう妊娠することはありませんでしたけどね。
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注意 : このあと私の出産苦労話が続きますので、出産を控えていらっしゃる方は
無事に出産を終えるまでお読みにならない方がよろしいかと思います。
『ド近眼』と『太め』を除けば、健康体そのものだった私。過去の入院経験といえば、21歳か22歳の時に患った網膜剥離のレーザー治療のための2泊3日の入院のみだった。
だから出産も、ごく普通の自然分娩になるだろうと思っていた。(お産って時間長いし痛くて大変そうだな~、嫌だな~、でも皆もどうにかなっているんだから私も大丈夫だろうな~)みたいな。
ところが! 予定日(12月18日)のちょうど一ヶ月前に、思いもかけない危機に襲われたのでございます。
1995年11月18日は土曜日で、手帳日記によると私はその日、午前中友達にFAXを送り、ランチに親子丼を食べ、午後ケイトーと散歩に行き、クリスマス・ケーキの生地を作った。午後6時過ぎ、その日は一日仕事(自宅でイラストの)だったオットーとシチューののこりで夕食を済ませ、ケーキをオーブンに入れ、ミカンと紅茶を持って病院ドラマ『カジュアルティー』(=Casualty Department=イギリス英語で救急外来のこと)を見るべく居間のソファーに落ち着いた。
直後の午後7時35分頃、何の前触れもなく突然、腹部に激痛が! それまで経験したことのないような、息をつくのがやっと、話すこともままならないような激痛で、ソファーに横に倒れこんだまま身動きできなくなってしまった。(最初オットーは私がふざけているのかと思ったそうで。)
腹痛は弱まらず間隔もないので陣痛ではなさそう。そこで7時50分頃、オットーは診療所に電話。その日の緊急往診の担当だったお医者さんが来てくれ、私の血圧が極度に下がっているため早期胎盤剥離による内出血を疑い、救急車を手配。救急車は8時25分に到着し私は車椅子に乗せられて車内に運ばれたが、車内で手当てにしばらくかかり、(は・や・く・出発してよぅー!!)と内心で叫んでいたのを覚えている。
9時過ぎやっと出発、9時半グロスター・ロイヤル病院に到着。(その間すごく気持ち悪くなり、3回吐いたと日記に書いてある。私は忘れていたが。)
病院に到着するとすぐに「衣服が切り裂かれ、左手の血管を探され、マスクされ、失神」。緊急帝王切開によってムスメは5分後には取り上げられた。
私が救急車に乗ったあと、オットーは帰りの『足』のことを考えて自分の車で救急車を追って病院に来た。私はムスメが生まれたあとも危ない状況にあったのだが、お医者さんからそう説明を受けたとき、オットーは自分でも驚くくらい冷静でいられたとか。そのためお医者さんに「ずいぶん落ち着いておられますね」と言われたそう。「今思うと、あの時は急な展開にびっくりして神経が麻痺していたんだと思う」と、後日本人は申しておりました。
ムスメは予定日より30日早く生まれ、体重も2665gと小さめだったので、大事をとって最初の晩は保育器に入れられた。
翌日の11月19日(日)。オットーが耳元で “It's a girl. She's beautiful.”とささやいたような気がしたけど、夢を見ているんだと思った。
後から訊いたら、私が麻酔から一時さめかけた午前9時頃にそう言ったのだそうだ。
その時オットー、力なく横たわる私を見ながら約25年ぶりに泣いたって、後で告白してくれた
こんな状態でICUにいたんだもの、これ見て泣かなきゃヒトじゃない!?
(↑待てよ・・・オットーってば①カメラ持ってきて②写真撮る心の余裕はあった、ってことじゃんか)
「目を開け時計を見たら午後1時。ノドに入っていたチューブのせいで、ノドが痛い。なぜか右カカトも。」 ・・・右のカカトの痛み、その後も一週間くらい消えなかった。まるで長時間、ひどくひねった状態で固定されていたみたいな痛みだった。何だったんだろう???
「麻酔からさめかけなので、やたら眠い。2時頃オットーが来てくれたけど、ささやき声でしかしゃべれず。頭も半分モーロー。5室あるICUの1室にいた。いろんなモニター装置があり、両腕にチューブ、鼻にもチューブが入って、トドのように横たわるのみ。オットー、時々うとうと眠りかけてしまう私に話しかけながら、7時40分頃までいてくれた。」
オットーはこの日、異常がないのでめでたく保育器を卒業したムスメを初めて抱っこさせてもらった。看護師さんが撮ってくれたポラロイドを2枚。
左の写真に書き込んであるD.O.B.18.11.95@21.35hrs というのは誕生日(Date of Birth)が1995年11月18日21時35分という意味です。
右の写真の書き込み 1st Cuddle + 20mls milk は、親(つまりオットー)に初めて抱っこされ(クビを締められているのではない)ミルクを20mlもらった、という意味。
長いこと妊娠してたのは私なのに、オットー、いいとこ取りやんかー!
産科は別棟で病院の本棟から離れていたので、生まれたあとハナは産科に運ばれ、私は本棟のICUにいた。
20日になって、オットーと助産婦さんがハナを乳母車(これって死語?)に乗せて連れてきてくれ、初めての対面。
「無事でよかったね、と思ったら涙が溢れた。」
21日の午後、私も産科の個室(ラッキー)に移ることができた。この日からハナは日中は私の部屋で一緒に過ごせるようになった。
私はまだ立って歩けなかったので、ハナの世話はすべて看護師さんがしてくれた。
イギリスの病院は、キビシイ。早く回復するには、できるだけ早く立って歩いて元通りの生活をするのが一番、という考えみたい。私も22日には看護師さんに助けてもらって初めてトイレに行き、ハナの沐浴指導を受け、23日にはシャワーを浴びた。授乳や二度目の沐浴やポンプを使っての搾乳の指導も受け、どんどん忙しくなっていった私。26日、つまり緊急開腹手術の8日後には退院した。(日本の病院なら自然分娩でも一週間くらいは入院するんだから、私のようなケースなら最低でも二週間はおいてくれるのがフツウじゃないのぉ!!?)と信じられない思いだった。
さて、肝心の私の突然の内出血の原因ですが。病院に頼んで2ヶ月後にコンサルタント(お医者さんの中でも格別に偉い、ボスみたいな人?)に話を聞かせてもらったところ、原因は「不明」だそうです。
救急車で病院に着いた私はすぐに眠らされ、ハナは緊急帝王切開で無事誕生。ところが胎盤には異常なかったのに、まだどこかで出血していて体温も危険な状態まで下がり、7ユニット(約4ℓ)もの輸血が必要だったそうです。
調べてみると「胃の後ろにある静脈から出血が続いているらしい」ので、私のお腹は続けて縦に長く切開されました。
が、出血箇所を探して奮闘?するうちなぜか出血は止まり血圧も落ち着いたので、(???)で頭の中を満杯にしながら、何の処置も施さないままお腹を縫合したそうです。
なにぶん緊急だったもので、ゆるやかなスマイル状の帝王切開の傷跡は横に約22cm。約30cmあるタテの傷跡は胸のくぼみのすぐ下から始まっておヘソの横を通り帝王切開の傷跡に達しているので、私のお腹には、大きな錨のマークみたいな立派な手術跡がのこりました。ビキニを着たことはなかったし、これからも着たいとは決して思わないような体型でよかったと、この時ほど思ったことはありませんでしたよ。ホント。
コンサルタントによると、私のような症例は「過去に見たことも聞いたこともない」し、「妊娠が関係していたとも考えられない」そうです。本当に珍しい例だから「また妊娠しても、きっと大丈夫」とのことでした。
実際には、育児ってすごーく大変だったしオットーも私も「子供は一人でいいね」と意見が一致したので、もう妊娠することはありませんでしたけどね。
それにしても母子共に無事でよかったです
お産は病気じゃないって言うけど、母親が命をかけて新しい命をこの世に送り出すんです
母は偉大ですよしっかり威張っちゃいましょう
緊急事態にしっかりを忘れずに、しかもちゃ~んと記録を残したオットーさんあっぱれ!
よかったね~記憶ってだんだんあいまいになるもの・・・写真の存在は大きいですよ~
写真で今とても残念に思うのは、ケイトーのアップや至近距離からの写真をほとんど撮っていなかったことです。そばにいるのが当たり前だったので、気がつきませんでした。皆さんの犬ブログを拝見するまで。ケイトーが存命中にブログを始めていればなぁ~
ケイトーの愛しい表情はすべて目に焼きついているから、それでよしとするしかないですね でももしまた犬を飼ったら、今度はアップをバシバシ撮るぞぉ~!