昨夜は、西の空に、わずかな時間
厚い雲のすきまから秋の大きな二日月が明るく輝いておりました。
写真は、うまく撮れませんでしたが
その瞬間に、西の窓を見た自分がなんだかうれしくなりました。
今朝は、この頃よく焼いている
胡桃と牛乳入りの食パンを焼くために早起きしました。
正確には、ホームベーカリーに材料をセットするためですけれど。
今は、カフェオレを飲みながら、カシミアのカーディガンを羽織って
ひざかけをしてパソコンに向かっています。
昨日の電話相談のボランティアは、偶然にも
幼いころに親の愛情をもらえなかったとおっしゃる
女の方、男の方と続きました。
お二人ともいっしょうけんめい生きておられるけれど
時々、どうしようもなくつらくさびしい気持ちにおそわれます。
人から「やさしい人」と言われても
自分のやさしさに罪悪感を持ってしまう。
どうしようもないさびしさから解放されたい
それは自分を愛していないからだとわかっていても
自分を愛せない私がいる。
お話をお伺いしていると
感じていることはみな同じなのですね。
私も同じ思いで、そこにおらせていただきました。
でもね
自分はやさしくないとか
自分をもっと愛したいとか
気づいているということは
あなたも
私も
やさしさとか愛するとかが、ほんとうは、
最初からわかっているから
そういう言葉が出てくるのじゃないのかしら・・・
もともと、誰のこころにも
やさしさとか愛のこころというものは
この世に生れて来た時に
みんながもらっているものではないかしら。
ただ見えなくなっているだけ
気づいていないだけの違いじゃないかしら。
そしていつも
やさしさ100パーセント
愛のこころ100パーセント
というひとは存在しないんじゃないかしら。
だって
一日は、24時間。
明るい昼間と、闇の夜があってこその一日ですもの。
そのどちらも大切。
お月さまだって、毎日姿を変えておられます。
私たちだって
1か月、いつも同じ感情では生きられません。
そんな宇宙の仕組みと同じように
私たちのこころもつくられているのではないかしら。
やさしい私と
やさしくない私
そのどちらもがたいせつな私ではないかしら。