直物学者の牧野冨太郎氏が月給15円の時代、
借金取りが来ると夫人は家の外に出て
赤旗を立てるのが常だった。
彼はそれを見ると来た道を引き返して
借金取りから身を隠していたようです。
『日本植物学の父』と呼ばれる牧野富太郎博士は、
現在の高知県高岡郡佐川町に生まれて
幼少の頃より植物に興味を持ち
独学で知識を身に付けていきます。
小学校をわずか2年で中退したにもかかわらず、
22歳の頃に東京大学理学部植物学教室への
出入りを許され研究に打ち込むようになります。
26歳の頃に
元彦根藩士の娘『小澤壽衛子(すえこ)』と結婚し、
31歳で東京大学の助手になりますが
当時の給料は、かなり少なかったようです。
研究に必要だと思うと高価な書物でも購入し、
借金も重ねた牧野家の家計は常に苦しい状態で
借金取りに追われることも多々あったようで
逃げるために何度も引っ越しを繰り返したようです。
妻の壽衛子は、
そんな牧野富太郎博士の研究を支え続けました。
後に50歳の頃に東京大学の講師になり
27年間も東京大学で講師を務め
94歳で亡くなる直前まで
日本全国のみならず海外も飛び回り
膨大な数の植物標本を作製します。
その成果は、50万点もの標本や観察記録、
命名した植物は、1500種類を数え、
『牧野日本植物図鑑』等、多数の著作を残していて
牧野富太郎氏が生まれた日は、
『植物学の日』に制定されているようです。
同じ時代には、私でさえ耳にしたことがある
日本の偉人、奇人であった
博物学者、生物学者、民俗学者の
南方熊楠(みなみかた くまくす)氏がいますよね。
そんな二人の日本の偉人達を
後ろでしっかりと支えた妻たちがいて
その妻達が大きな器の持主でなければ
この二人の偉人達の大きな功績も無かったかもしれません。
今の日本に、そのような女性は絶滅したのではないだろうか。
今の日本に、妻がそのような気持ちになれる男性はいるのだろうか。
なんて狭い視野で思ったりもしますが
ノーベル賞を受賞した研究者達達とその妻達の歴史を見れば
メディアには大きく取り上げられていませんが、
きっと同じような歴史を刻んでいるのかなと思ったりします。
後の世まで何か残せるような偉大な業績をあげることもなく
日本の世の片隅で普通に過ごし生涯を終えたとしても
互いに深く信頼し助け合える関係性が結べたら
それこそが宝。それだけで人生は豊かなものとなるのかも知れません。