木村伯龍のひとり言

大阪のミナミはアメリカ村の占い師の日記

観相学(手相・人相)の歴史について

2015-10-13 20:31:33 | Weblog

たまには、観相学(手相、人相)の歴史に付いて、語りましょう。観相学の原本は、中国の宋の時代の陳希夷先生の「神相全編」より始まります。日本には。遣唐使の時代に入ってきます。630~894年です、仏典などと一緒にやって来たので、大事にされました。観相だけではなく、鬼門とんこう、後の九星学などもやって来ました。 その当時字が読めるのは。公家か坊主か知識人くらいです。戦国時代、臨済宗の僧侶である。安国寺恵瓊が織田信長を見て。将来。高転びするでありましょう。と言った話は有名です。江戸時代になって、徳川家康が経済振興策を取り、飛躍的に景気が良くなって行った慶安の時代、初めて「神相全編」が世に出てきます。江戸が始まって五十年くらいです。経済が豊かになり、文化も盛に成ってきた時です。みんな占いに興味のある人は、これを読みました。人相見で有名な、水野南北先生も。海常先生から、三日その講義を聴いて、旅に出ます。水野南北先生は、1760年~1834年の人です。元禄時代は。上方(大坂・京都)を中心に町民文化の花開く時がやって来ます。当時、京都に菅沼梅荘という先生が居られて神相全編から始まって、自分なりの観相学の一門を立てていました。菅沼梅荘先生の方が水野南北先生より五十歳くらい先輩です。菅沼梅荘先生の「菅沼梅荘相貌録」を読んでみると、水野南北相法の骨格的な本だと思います。その頃、江戸では石龍子という先生がいて、漢方医と観相を両方していたが、一番当たる占い師として、有名でした。この当時は、一子相伝の時代だから、勉強するにも大変な時代いう事は、間違いないと思います。人相が研究されていく中で、上方に蘆塚斎先生がいます。人相の本はいっぱい有るのですが、手相の血色気色をかかれた本はあまり有りません。蘆塚斎先生の本は、変体かなで書かれているので、少し工夫がいります。宝暦六年に書かれた、「手相即座考」が有名です。どの世界にも、必ず一度は危機が来ます。安永八年、三代目石龍子先生が、京都の占いの許可をしていた、土御門家が勝手に占いを、自分らの許可無くするのはけしからん!と京都の町奉行所に訴えました。石龍子先生は観相は医術であると、立証したので、石龍子先生はお咎めが無く、反対に土御門家は御用をはずされたとなっています。この年、この判決が有って、菅沼梅荘先生の「相法玉振録」が出ます。人相の気色を絵入りで書いておられます。人相を勉強する人にとって一度は目を通す本です。三代目石龍子先生の時、神相全編の手直しが入り、「神相全編正義」がようやく完成を見ます。

取り留めなく書いてきましたが、実は、手相の気色血色の本を出そうと思って、資料を作っています。その中で、蘆塚斎先生の「手相即座考」と石龍子先生の「神相全編正義」が参考に成っています。天道先生などから、いつ本を出すのだ!と言われて、延び延びになっていたら、いつのまにか尻に火が付いて。ぼうぼう山にも、いないのに、後ろから燃える音が聞こえています。急がなければ、こんなブログを書いている暇がない・・急がなければ!(笑)

いつも、退屈なブログを読んで頂き、ありがとうございます。(ペコ)☜これは、頭を下げて礼をした音です。放ったらかしでも、いつも100人から読んで頂いています。余ほど暇なのか、する事がないのか(笑)そんな事は有りませんね。とにかくありがとう(ペコ) 


1 コメント

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ありがとうございます♪ (☆ltf☆)
2015-10-29 20:12:46
いつも楽しみにしてますよ(*^^*)
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