kouheiのへそ曲がり日記

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「私」と退屈

2005-11-11 11:13:00 | 日記
「私」が存在するためには、他者に「見られ」なければならない。
だが、「私」を見るのは誰なのだろうか?

江戸時代は、あらかじめ見られていた時代だといえるだろう。
カエルの子はカエルというが、当時は、農民の子に生まれれば一生農民であり、職人の子に生まれれば一生職人であった。
見られる「私」に選択権はなかった。

だが明治期以降の近代日本においては、「今に見ていろ」の時代が始まった。
あくまでも一部の人に限られるのかもしれないが、見られるべき「私」になるbecomeために、一所懸命頑張った。

この時期に見てくれた人としてまず挙げられるのは、しばしば自分を見下した故郷の人々である。
その人々に対して、「今に見ていろ俺だって」と意気込んで、頑張ったのだ。

次に挙げられるのは、期待をかける一族郎党だ。
彼らは、こう叫んで見守った。
「身を立て、名を上げ、やよ、励めよ」と。

最後に挙げられるのは、神や人類・歴史、民族・社会・世間等々といった、より一般化された視線であろう。

ともかく、この時代の野心家たちは、見てもらう、認めてもらうために、皆で「持つ」と「する」(所有とachievement)ことに精を出したのだ。

しかし、1970年代以降の高度経済成長が終焉をむかえた時期より、「誰も見てくれない」時代が始まった。

その要因としてまず挙げられるのは、産業化・都市化によって、錦を飾るべき故郷がうしなわれたことである。

次に挙げられるのは、平準化である。
つまり、誰も同じで、わざわざ見るまでもないという意識の蔓延である。

最後にいえるのは、神や世間等々といった、あるべき「私」を負荷した遠い視線も希薄になってしまったことだ。

この時期より、皆「私」に退屈するようになった。
つまり、遠い視線が衰退するなかで、「私」は欲望をかきたて、あるいはエネルギーを受け止める力を失ったのだ。

皆「私」に退屈する時代では、「私」は、様々な様相を呈するようになった。

①ある種の人々は「私」にしがみついた。
しかし、それは旧態依然・惰性的という印象を与え、多くの人々にダサイという感じを与えるものでしかなかった。

②「私」を追いかける人々も現れた。
具体的にいうと、家を建てたり、子供を良い学校に入れようとしたり、ブランドものを買いあさったりする連中だ。

③「私」の知らないものを探究する人々もいる。
不倫・グルメ・海外旅行等々・・・。

④「私」を気楽に楽しもうとする人々もいる。
あいのりに出演したり、カラオケではしゃぎまくったり、路上で歌い上げるストリート・ミュージシャン等々・・・。
その背後にあるのは、演じてみせる思いやりと「見てあげる」優しさだ。

⑤若年層によくみられるのは、「私」が見られることの断念だ。
ビデオやファミコンに没頭する子供たち・・・。

⑥究極は「私」の作動停止だろう。
登校拒否・自閉症・自殺等々・・・。

あなたは、どのタイプ?(笑)