飯坂温泉駅に着くと十綱橋のたもとに芭蕉の像が出迎えてくれる。
本来、芭蕉は伊賀者とされ年齢的にも奥の細道行脚に向かったのは壮年の頃である。
ところが、この像は俳聖芭蕉のイメージで老人の姿になっているが
本来とは違う。壮年の芭蕉は伊賀者の逞しさが溢れていたはずである。
芭蕉が飯坂で鯖湖湯で一夜を明かした時に、蚤と虱に悩まされ
翌朝、早々にほうほうの体で伊達の大木戸に向かった。
のみしらみ 馬のしとする まくらもと
この句はその時の有様をいかんなく歌っている。
その後、芭蕉は奥の細道を仙台から石巻に向かった。
紀行文を読むと、この行程で水ひとつにしても快いもてなしを
受けられなかったようである。
しかし出羽道(現在の山形)にはいると文人等が多く、各地で
芭蕉は歓迎を受けた。
ちなみに奥の細道で滞在日数が一番多いのは出羽路であった。
五月雨を 集めてはやし 最上川
本来、芭蕉は伊賀者とされ年齢的にも奥の細道行脚に向かったのは壮年の頃である。
ところが、この像は俳聖芭蕉のイメージで老人の姿になっているが
本来とは違う。壮年の芭蕉は伊賀者の逞しさが溢れていたはずである。
芭蕉が飯坂で鯖湖湯で一夜を明かした時に、蚤と虱に悩まされ
翌朝、早々にほうほうの体で伊達の大木戸に向かった。
のみしらみ 馬のしとする まくらもと
この句はその時の有様をいかんなく歌っている。
その後、芭蕉は奥の細道を仙台から石巻に向かった。
紀行文を読むと、この行程で水ひとつにしても快いもてなしを
受けられなかったようである。
しかし出羽道(現在の山形)にはいると文人等が多く、各地で
芭蕉は歓迎を受けた。
ちなみに奥の細道で滞在日数が一番多いのは出羽路であった。
五月雨を 集めてはやし 最上川