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Jodi Picoult: My Sister’s Keeper

2009-10-05 05:23:49 | 日記

ジョディー・ピコーの「わたしのなかのあなた」を読んだ。この物語は、いい加減な生物学の知識を使って、現代倫理学の論理を無視した上で構築されている。それでも、各登場人物の葛藤、成長、友情、慕情等が見事に織りなされ読み応えのある小説だった。もちろん、ジョディー・ピコーの道徳観と倫理観は自分と違っているので、ストーリー展開に違和感を感じなかったと言えば嘘になる。登場人物の中では、人間としては完璧ではないけれど弁護士キャンベルに何か魅力を感じた。彼の不思議な言動の理由は物語の最後で明らかになるのだが、読者はまず出来事を通じてそのことを感じるのである。基本だけれど、最近の小説には登場人物が台詞で安易に説明することも多くしらけてしまう。その点、ジョディーの作品は気持ちよく読むことが出来た。

さて、生物学上の問題とは何か。一つは、Perfect Match である。不可能だ。せいぜい一人の女性の持つ卵子の数はせいぜい百万前後。減数分裂の過程で染色体の組み合わせは2の23乗(2^23 = 8,388,608)通りあり、同じ組み合わせの染色体を持っている卵子が2個存在する確率はかなり低い。その上、減数分裂では遺伝子組み換えが高率に起こる(平均して五千万塩基に一回くらい)。ヒトゲノムは三十億塩基くらいあるので一つの卵のなかで数百回組み替えが起こると考えて良い。遺伝子的に全く同じ卵子は存在し得ないといって間違いないのである。それは精子にも当てはまる。もし百歩譲って、「数十個の遺伝子が一致すれば移植を考える上で “Perfect Match” と考える」ことにしても、試験管受精のために採取する卵の数はせいぜい30個。そのなかで、数十個の遺伝子が一致する確率は万に一つ以下である。もちろんゼロではないので小説には使えるが無理がある。さらにそれをデザイナーベイビーと呼べるかどうか。何も遺伝子操作をしていないのである。つまりデザインしていないのにそんな名前をつけても良いのかな。現実にはせいぜい、MHCと血液型が一致する受精卵を探すのが関の山だろう。

大学で生命倫理を教えるときに題材としてよく使われる有名な Jason Baby は、死んだ赤ちゃんからまだ生きている細胞を取り出してクローンするという話。これなら時間的にずれた一卵性双生児という状況と呼べるので、”almost perfect match” といえるだろう。どうやら、それではないらしい。それを題材にすればそれなりに面白い話が書けるのではないか。新しいジェイソンは自分の定義に悩むだろう。親は昔のジェイソンと新しいジェイソンを比べてしまうだろうし、違いに途惑いもするだろう。話がずれてしまった。

倫理上の問題とは何か。倫理は個人の行動規範なので、誰がどう考えようと自由である。とても個人的なものであり、みんなで話し合うなどという性質のものではない。しかし多くの人が各自の倫理観に基づいて行動すると利害が衝突することもあり、倫理が公共の問題となって話し合いが始まる。その摩擦を調整するのが政治であり司法なのだが、そこでの交渉や判断の過程において Stakeholder を特定するというのが最初の、そして最も大切な作業となる。この物語は倫理を中心のテーマに据えておきながら、その大事な手順を無視して進行するので、本来なら小説の中で詳しく語られるべきにもかかわらず、取り残された人たちがたくさんいる。そこをもっと突っ込めば話に深みが出るのにと残念でならない。さらに、各々の登場人物の判断手法が示されておらず曖昧なので、人物描写が不十分のそしりは免れない。せっかく、多くの人の立場で事件を追っているのだから、みんな違う倫理観を持った方が面白い。そのためにはどの人物がどんなふうに考えているかが行動から推測できるように物語が記述される必要がある。例を挙げると、 Ann の誕生のためにどれだけの命が失われたか。一個人になることの出来る受精卵を生命体と考えるならば、何十人もの生命が失われている。そう言う倫理観を持った人は多数いる。もちろん中には、受精後2週間がヒトの誕生と考える人々や、神経系の発生が見られたときがヒトの誕生と考える人もいる。社会的には生まれて声を上げてはじめてヒトであるとか、一歳の誕生日を迎えてヒトとなると考えるところもある。いずれにせよ、何故、Ann だけが意識を持つ権利を与えられたのだろうか?サラやブライアンにはそれを選択する権利があるだろうか。この大事な問題は全く捨て去られている。あるいはフィッツジェラルド夫妻は、そんなことは気にもかけてないと言いたいのだろうか。

サラはどんな考えで行動しているのだろうか?
理解に苦しむ。
無意識のうちに多くの人が使っている Double effects ではあり得ない。カント思想でもない。アリストテレスでもない。功利主義でもない。様々な先人が倫理的な問題に直面して考え抜いた解決法のどれにも当てはまらない新しいタイプに違いない。本当にそこまで考えて行動しているのだろうか。
実際には小説の中で、彼女は多くの stakeholder のごく一部のみに目を向け、その他のヒトの不利益には無関心(死んでも良い)、あるいは耐性がある(アンの不幸)。 私には知的教育を受けていない人物が、ただの自己満足のために行動しているとしか思えない。サラを好きになれない理由がそこにある。一握りの人を除いて、周囲が彼女の行動に対して何も言わない、あるいは何もしないのは不自然だ。もちろん、アンとケイトが彼女に対して行動を起こしたから小説になった。

そういう生命倫理上の不条理さはあるが、それさえ無視してしまえば楽しめる小説である。
四つ星かな。(お薦め)