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saderのエッセイ館

saderは自然の中を旅するのが好きです。
四季折々自然が持つ“蠱惑の魅力”を『エッセイ館(やかた)』へとどけます。

ヒマラヤの青いケシの花

2025-05-29 12:42:44 | Weblog
“青い大輪の花”を荒涼としたヒマラヤの空の下で初めて見た人は、高地にこんなに美しい花が咲く事に、さぞや驚いたでしょう。その後(のち)、この花が“ケシの花に似ている”ことからギリシャ語でメコノプシス(Meconopsis) “ケシモドキ”【ケシ(mecon)似る(opsis)】と名付けたと伝へられています。
“青いケシの花”を「ヒマラヤの青いケシ」と呼んでいますが、メコノプシス属(ぞく)は種類が多いので、どれを指して「ヒマラヤの青いケシ」と言うのだろう・・・?何時か、機会があれば“名前に相応(ふさわ)しい花”を見たいと思うようになっていました。
ヒマラヤ山脈へ行く機会もありましたが、花の季節に訪れたのはアンナプルナに行った一度だけでした。この時はラリグラス(石楠花)が満開でしたが、マチャプチャレBC(標高3,650㍍)まで行くと雪が残っていて、雪の狭間(はざま)から顔を覗かせているサクラソウしか見られませんでした。
その後も何度かヒマラヤ山脈を訪れる機会はありましたが、季節が早過ぎたり、遅すぎたりで“幻の花”と言われる「ヒマラヤの青いケシ」に出会うことはありませんでした。

                         四姑娘山塊の略図
もう、「ヒマラヤの青いケシ」をみる機会は訪れないだろうナ~、と思っていた2004年6月。「水曜クラブぶなの木」と「エスカルゴ山の会」が中国の四(すう)姑娘(くうにゃん)山塊(さんかい)にある大姑娘山(たあくうにゃん)(標高5,025㍍)の登頂と世界遺産“九寨(きゅうさい)溝(こう)・黄龍(こうりゅう)”を旅することになりました。はからずも「ヒマラヤの青いケシ」を見ることが出来るという機会が訪れたのです。
その前の年、思わぬ病に罹(かか)ったため、退院4ヶ月足らずで出発となるスケジュールでしたので果して参加出来るのだろうか?迷っていたが、幸い入院していた病院の外科部長が“参加したい”と言ってくれたので行く決心がつきました。“悪友に言わせると自分が“四姑娘山の写真を撮りたいのでDrを引っ張り込んで参加したんだ”ということになるのですが・・・・。
 大姑娘山は、中国の四(し)川省(せんしょう)チャン族(チベット族)自治(じち)区(く)にある四姑娘山塊にある四つの峰の南端に位置するピークです。その登山の起点となるのが日(りい)隆(ろん)鎮(ちん)(標高3,200㍍)です。ここへは巴(ぱあ)朗山(ろうしゃん)峠(とうげ)(標高4,250㍍)をバスで越えて行きます。この峠には多種多様な高山植物と共に、多くの“ケシの花” ( メコノプシス属 )が咲きます。

(写真は「エスカルゴ山の会」会報会報から)
勿論、大姑娘山のAC(標高4,400㍍)付近や老牛(らおにゅう)園子(いえんすう)BC(標高3,700㍍)、更には世界遺産の黄龍(五彩(ううさい)池(ちい)の標高3,600㍍)付近でもエーデルワイス、アツモリソウ、“青いケシ”などの花があたり前のように咲いていました。
日隆鎮の金(きん)昆(こん)賓館(ひんかん)に落ち着いた翌日、登山第2日目、高度順応のため巴朗山峠に向かいました。そのときの事ですが“ヒマラヤの青いケシとエーデルワイス”に憧れて、この山行に参加した「水曜クラブ・ぶなの木」のT子さんが“濃い青色”のケシの花を見つけて、ガイドの潘(はん)さんに「これがヒマラヤの青いケシなの?」と訊ねると、「そうです!」と返事が返ってきました。
しかし、Tさんは“花の色が濃すぎる”と思い、疑問を感じて「ホント?なの・・・・」と問い返すと、潘さんは「本当です。嘘だと思ったら、私の事務所に来て下さい」。「この花は成長すると、丈が伸びて花の色も薄い青になるのです」と自信満々に答えました。
 二人のやりとりを聞いて、帰国後、あらためて「ヒマラヤ植物大図鑑」調べたら“青いケシ”の種類の多さと、これに魅せられて調査研究する人の何と多いことか!を知ることになりました。
「ヒマラヤ植物大図鑑」は「山と渓谷社」が創業70周年事業の一つとして発刊しましたが、その著者が故吉田外司夫氏(1949~ 2021年)でした。吉田氏は“青いケシ研究会”を立ち上げ、「青いケシ大図鑑(青いケシの新種24種も発表)」も発刊して、シノ・ヒマラヤ植物の”牧野富太郎”と呼ばれていると伺いました。
シノ・ヒマラヤとは、中国南西部からヒマラヤにかけての山岳地帯のことで植物地理学上そう呼称する様です。因みに、「山と渓谷社」創業70周年事業には私も“尼崎アルカイックホールでの講演会”に重弘恒夫氏(K2世界第2登頂者)、市毛良枝さん(女優・登山家)とご一緒させて頂き多少のご縁がありました。
先に述べました、井上さんと潘さん二人のやりとり云々(うんぬん)について、『大姑娘山紀行』(エスカルゴ山の会・水曜クラブぶなの木)共著、のコラム欄(らん)に「ブルーポピー後日談」として寄稿(きこう)させて頂きましたが、これは「ヒマラヤ植物大図鑑」から得た知識の受売りをしたものでした。
あれから、もう何年も忘れていた「ヒマラヤの青いケシ」ですが、六甲高山植物園に咲いていると聞いて、2023年5月9日、早朝から電車を乗り継ぎ、環状線や大阪駅のラッシュアワ-を数十年ぶりに体験しつつ、老骨に鞭打って六甲山へでと出かけました。
やっとの思いで辿り着いた植物園。期待に胸膨らませて咲いているという場所へ行ってみたら、一輪の花も見当たらない!植物園の窓口で尋ねると 「昨日までは咲いていたが昨夜の雨で散りました」というのだ、なんと無責任な~!・・・・。

そんな事があって、諦めムードだった2025年5月23日。毎年「ヒマラヤの青いケシ」を六甲高山植物園へ見に行っていると言う「フォトクラブ大峰」のT氏から電話があった。「昨日、行ったら咲いていいましたよ」“一緒に撮影に行こう”と誘って頂き、再び六甲高山植物園を訪れました。
この日、シノ・ヒマラヤの地とは違うところですが “スカイブルーの花”が「ヒマラヤの青いケシ」の名に相応(ふさわ)しく青空の下、美しく咲いていました。                                                  
“透き通る青空のような青い色の孤高の花”、その花言葉は「底知れぬ魅力」でした。(小さい写真はクリックで拡大します)
                                               完
ヒマラヤの青いケシの花(六甲高山植物園にて)

★ブログはAmebaに引っ越ししました。(不慣れなため写真の挿入が上手く出来ません(>_<))

大峰を望む「柚野山」

2025-03-12 12:54:21 | Weblog

奈良県の天然記念物に指定され、知られるようになった福寿草の生育地、津越の稱名寺から南東に尾根を辿ると柚野山(標高849.6㍍)という、如何にも里山に相応しい名前の山がある。
柚野山は毎日新聞旅行の登山ガイドをしていた平成13年(2001年)奈良県で日帰りの軽い登山ができて花と温泉の楽しめる所がないか?と探していたときに知りました。
稱名寺の北面には福寿草の保護地があり、三月上旬に花が一面に咲き香ります。また、山門付近はロウバイ、ハナモモが咲き、近くに西吉野温泉もある。柚野山は日帰り軽登山に持ってこいの場所でした。
此処、」10年ほど訪れていないが、3月10日(月)快晴の朝、思い立って出かけました。
稱名寺下の道に小型の千里山バスが駐車していたので、運転手さんに「皆さん柚野山ですか?」と声をかけたら、「皆さん、福寿草の散策ですよ」と言っていた。今年は梅の花や福寿草の開花が遅く、花も少ないようだったが・・・。
    
稱名寺山門の前まで行き、左への道を登ってゆく。舗装の途切れたところで急な山畑の道に入る。以前は電気柵の扉だったが、金属の格子扉になっていた。開閉を確認し、登ってゆくと両側が鉄のフェンスになっていた。古い墓地を左にみて、支尾根へでて、モノレール沿いの道をゆく。
モノレールを離れると、以前あった八坂神社の建物と朱塗りの鳥居が無くなって、避難小屋が建ち“須佐男神社跡”の小石碑がありました。
     
避難小屋の右側から先へ進むと林道に合し、立派な道標が建っていた。林道を左へゆけば、右から舗装林道を迎える。更に先へ進むと道は少し下り、右から左へのカーブを登り返す。
左がコナラ、クヌギの自然林になれば、木の間越しに櫃ヶ岳や栃ヶ岳が垣間見られ、間もなく林道が津越・桧川迫方面へ下る分岐にでる(ここにも新しい道標がある)。
分岐を左へ10㍍ほど下った右側、杉林の“赤テープ”を目印に尾根右側を水平にゆく山道へ入る。やがて道は尾根の左側を登って支尾根にでる。左の主稜線へと登り、杉と雑木の混在する尾根をゆけば、やがて柚野山(標高849.6㍍)に着く。

以前、展望は得られなかったが、東側が少し伐採され、稲村ヶ岳方面が眺められる様になっていた。帰路、広橋峠の梅林を見てきたが、まだ“蕾硬し”と言った感じだった。(小さな写真はクリックで拡大します)


「袴ヶ岳」を登る

2025-01-22 16:33:57 | Weblog

三郎ヶ岳の南西方向にやや低い鋭鋒が見える。“袴ヶ岳”である。初めて名前を知ったのは伊賀山稜会の高田榮久氏が執筆された昭文社の山岳地図シリーズ「室生火山群」を拝見したときである。昭和42年の初夏だった?・・・・。
その後、「奈良百遊山」を選択する際、“袴ヶ岳”を候補に挙げたがマイノリティー故に“遊山”に向かないと選ばれなかった。
あれから三郎ヶ岳を訪れる度、“袴ヶ岳”を眺めては、訪れようと思いながら幾星霜・・・・、気が付けば57年もの歳月が過ぎていた。今となっては雪を冠った鋭鋒 “袴ヶ岳”を登る事など思いも拠らない、雪の無い天気の良い日を選んで登ることにした。javascript:void(0)
      
年が明けた1月17日、晴れた朝、諸木野へむかった。“愛宕神社”の邪魔にならない場所に車を置かせて頂いた。諸木野川沿いに伊勢本街道を上流へ進み、三郎ヶ岳登山口から50㍍ほど手前、「袴ヶ岳」の道標がある“ノゾチ谷分岐”から谷沿いの林道をゆく。
右岸の道はコンクリートだが転石が多く、小さな崩落跡もある。途中、左岸への分岐を見送って、道なりに進む。やがて水が涸れた沢を渡れば左岸からの道と合し、小尾根に「袴ヶ岳」への道標を見る。ここからは小笹の生える斜面である、少し雪が残っていたが登りきると鞍部に着いた。
そこには“袴ヶ岳・田口・諸木野”を示す道標がある(かつて、大野・元上田口への踏跡があったと聞く・・・・)。
ここからは尾根道、木の間越しに三郎ヶ岳が見える。山頂直下付近は尾根が狭く、露岩の急坂だがフイックスロープが張られていた。三等三角点標石と山名版が残る“袴ヶ岳山頂(標高816.5㍍)”は樹木に遮られ、眺めは木間越しで良いとは言えなかった。
    
風花が舞い始めた山頂をあとに、道標のある鞍部へもどり、樹林の中790㍍のコブを越え、815㍍峰との最低鞍部まで行って、涸れ沢を下ることにした。

 

最低鞍部からの踏跡は、そのまま廃林道につながり、往路の尾根を下るより楽だったと思う。帰路、右の小沢に小さな氷瀑をみつけたが、近づけなかった。“愛宕神社”にもどった頃には雲が途切れ、伊那佐山の眺めが美しかった。(小さな写真はクリックで拡大します)

若草山(三笠山)の夜景

2024-12-24 11:19:29 | Weblog

宇陀城山の広々とした展望を眺めていたら、奈良の夜景を見たくなった。以前、初冬の若草山から眺めた夕焼け、日没までの素晴らしいグラデーションが忘れられないのだ。
12月11日(水)の朝、天気が良いのを見定め、念のため若草山の山頂駐車場へタクシーが来てくれるか、確認してから電車で出かけた。電車利用にしたのは視力の衰えを感じ、夜道を車で走る自信が無いからである。
奈良公園は、まだ紅葉が綺麗だった。浮雲園地の中を流れる水谷川は、モミジの落葉と小滝のコラボが絶妙だった。若草山へゆくには早、まだ早いので春日野園地から東大寺の東塔跡園地の方へ行ってみる。池への映り込み、銀杏の黄色い梢、舞い落ちる紅葉などにカメラをむけ、時間を忘れそうになる。
    
春日奥山の北遊歩道の入口へゆくには、水谷茶屋から東へゆく。遊歩道は砂利道だが広く歩きやすい。この時期、紅葉が美しい、緩やかな長い登り坂の道もに退屈しない。三丁石を過ぎ、ホテル日月亭への道を左に見送ると、道は大きくUターンして戻るように登るようになる。
中水谷休憩舎の丸屋根がある東屋で一息入れる。東屋をあとにすると、やがてゴミ箱がある分岐にでる。ここを左に進めば、やがて鎌砥検札所(かまとぎけんさつしょ)の和風建物が見えて、奈良奥山ドライブウエイの舗装路に出合う。
    
舗装路を左へ少しゆくと、駐車場とトイレがある。直進すると若草山の広々とした風景が広がる。日没までの時間、鶯陵の石碑が建つ若草山(三笠山)山頂(標高341.7㍍)にゆく。
因みに、鶯塚古墳は昔、幽霊がでると言われ、山焼きをしないと悪いことが起きるとの言い伝えから、若草山の山焼きがはじまったらしい。
  
日暮れの寒さは厳しかったが、夕焼けは素晴らしく、日没もアルプスのブレンネルブルーを思わせ、かつて眺めた夜景と共に、忘れ得ぬ景色となった。(小さい写真はクリックで拡大します)

宇陀城山

2024-12-20 13:37:43 | Weblog

12月9日(月)午前中の早い時間に音羽山を訪れた後、まだ時間があるからと欲張って、宇陀城山へゆくことになった。
宇陀城山は地元の豪族秋山氏が本城としていたことから秋山城、 神楽岡城.とも称された山城跡で、大展望が得られる聞き、紅葉の時期でもあり期待して訪れた。
宇陀城山へは大宇陀町“道の駅”から370号線を横断して県道166号線の信号が二つ続けてある先を左の広い道へ入る。車が通れる広い舗装路が山頂の直下100m付近まで続いている。しかし、何故か車の通行は禁止となっている。
この舗装路の終点には20台は駐車できそうな、駐車場?があり、簡易トイレの様な物もあった。更に傾斜のキツイ舗装路を登ると立派な案内板があって、吉野山方面が垣間見えた。ここから山道になってU字状にえぐれた坂道をぬけると、広く空間かひらけ、南西虎口の雀門があった言う辺りから城跡の本丸広場へでる。
        
本丸広場の正面東の小高くなった台地は渋沢栄一揮毫(きごう)による石碑などが建つ、宇陀城山の頂(標高471㍍)である。
今日は雲が広がり、生憎の天気ではあるが頂きから台高山脈、大峰山脈、室生火山群など四方の山々を見渡すことができる。季節が花期であれば絶景がひろがるだろと思えた。(小さい写真はクリックで拡大します)

女寄峠から音羽山へ

2024-12-14 17:24:32 | Weblog

音羽山への登山と言えば、音羽観音寺から登るコースが一般的に知られているが、予てから機会があれば、音羽山北の尾根から龍門岳へ縦走したいと思っていた。しかし、今となっては一気通貫で実行するなど、叶わぬ様になった。
最近になって、女寄峠(みよりとうげ)付近から送電鉄塔への舗装林道があり、音羽山まで難なく行けると教えられ、ならば登れるかも・・・・と12月9日(月)早速、出かけてみた。
音羽山から北へ延びる尾根へ取付くには、女寄峠トンネルの東側出口の上から村道を経て、山襞を絡む林道を三つの鉄塔を目指してゆく。
     
鉄塔が近づく辺りの山蔭に龍神社があった。ここから経塚山への登山道があり、案内板も設置されていたが、これを見送って第1鉄塔下の広場に駐車させてもらった。ここから第3鉄塔まで地道の林道を歩いて行き山道に入る。
よく手入れされた植林の中、緩やかなアップダウンの尾根を行くと、自然石の古い道標が残る峠に着く。山腹の東側が伐採中で、倒された大木が置かれていた。この辺りから尾根は傾斜を増すが、ひと登りすれば、音羽山(標高851.7㍍)山頂に着く。
 
ここから音羽山観音寺方面への道を少し下れば万葉展望台である。立ち寄ってみる事にした。
展望台からの眺めは雲が多かったけど、紅葉する樹木の彼方に金剛・葛城の山々を望むことができた。午後は、宇陀城山を訪ねてみよう。(小さい写真はクリックで拡大します)


“恋の谷”から烏ノ塒屋山へ

2024-12-07 15:57:42 | Weblog

『奈良百遊山』(奈良県・健康増進課発刊)に宇陀富士?とも言われる烏ノ塒屋山(からすのとややま)を踏査執筆したのは桜井市の住人K氏である。発刊されたのが1996年(平成6年3月19日)であるから、あれから30年以上の歳月が流れた事になる。
K氏とは半世紀近くのつきあいになる。烏ノ塒屋山に “案内して欲しい”と何度か要望したが何故か色よい返事をしないのである。 “黄泉の国”への旅立も近い・・・?と思われる小生としては、心残りの無いように12月4日(水)一人この山を訪ねる事にした。
予てから “恋の谷”という、曰くありげな地名にも魅かれていたので国道307号沿いの千本橋バス停から林道を山ノ神の三差路へ出て “恋の谷”最奥の無人民家まで行き、家の横にあるスペースに駐車させて頂いた。
          
山頂までの標高差は約300㍍、コンタが詰まった登りである。無事に往復出来るのか?自信はない。見頃を迎えた紅葉に見送られて民家を後にする。古い道標が“烏ノ塒屋山”と示す谷沿いのコンクリートの作業道を辿る。道は荒れていたが小さな崩壊箇所が二ヶ所だけだった。
コンクリートの作業道が尽きる辺りで、鉄塔(No84)からの道が左から合する。山襞を回り込むと涸滝の上に架かる朽ちた丸木橋を渡る。やがて道はテープが巻かれた杉の木で90度右折、尾根に出る。尾根道は真っ直ぐ伸び、東の山間から高見山を望む鉄塔No85の下を通る。
鉄塔からは東側に視界が開けた急坂を登り、獣除けフェンスの下まで行く。振り返れると大峰・台高の山並みが曇り空に霞んでいた。

更にフェンス沿いの急坂を登ってゆくと樹林に囲まれた山頂にでる。ここから龍門岳へも縦走できるようだが、倒木が重なり、かなり荒れているようだった。
標高 659.1㍍、三等三角点の山頂には “古い梵字の石標”が残り、「八咫烏」の神武東征伝説を今に伝えているかのようでした。気温の低くなった八咫烏の塒(ねぐら)を後に、昔は尼寺があって美しい安寿さんが住んでおられたと伝えられる “恋の谷”へと下山しました。(小さい写真はクリックで拡大します)



地蔵峠から”百貝岳”へ

2024-09-19 12:31:10 | Weblog

「百貝岳」という名前の山が在ることを知ったのは50年以上も前の事になる。奈良山岳会から出版された『大和・青垣の山々』に大峰山山系前衛の山として紹介されていた。吉野山の支脈にある山として、大いに興味を持って訪れてことを憶えている。
ここ十数年のあいだ足を運ぶ機会がなかったが、9月になって朝夕少し涼しさを感じる様になったのを機に、久しぶりに “百貝岳”へ訪れようと9月13日(金)に“黒滝道の駅”で10時に友人と待ち合せ、出かけました。
百貝岳は百螺岳とも呼ばれ、山名の由来は理源大師聖宝が宇多上皇の勅命を受け、この山頂から法螺貝を吹いて、大峰山を閉ざしていた大蛇をおびき寄せ、法力をもって呪縛したと伝わる。その法螺貝の音が百の法螺貝を吹き鳴らしたように山々に響き渡ったというのが山の名の由来となっている。
地蔵堂と東屋“地蔵の水”がある地蔵峠から鳥住春日神社まで1.5km程、舗装林道がつけられている。これは鳳閣寺、鳥住春日神社へ参詣するためだろうと思われる。神社の前に小さな駐車場があるので、ここに駐車させて頂きました。
鳥住春日神社には大きな梅の木があり、春先には美しい花をさかせる。駐車場から鳳閣寺へは傾斜の急なコンクリート舗装路がつけられている。その道の左に今は、住む人も無い家が建っている。急坂を上ったところが鳳閣寺境内の入口である。
     
鳳閣寺の境内に入ると、以前来た時には無かった鳳閣寺展望台が建っていた。展望台に上がってみると、ななかの絶景で、鳥住の集落を眼下に北東の吉野山蔵王堂などが望まれ、遠く金剛山、葛城山、二上山まで見渡せた。
展望台を降りて「石の廟塔を経て百貝岳」の道標の先にある塔の前を通ると、その奥に百貝岳への登山口がある。墓の前を通って良く整備され、歩きやすい登山道をゆく。緩い斜面の登りは植林の中だが、枝打ちが行きとどき明るく快適である。
支尾根の上に出ると丸い道標がたっている。ここから山腹を絡む緩い下りとなる。やがて道が登りに転じると、間もなく国の重要文化財に指定されている理源大師廟塔がある平坦地にでる。ここにも道標があり山頂まで0.9Kmと表示されていた。廟塔の裏側からは、階段状の登りとなっている。傾斜が緩くなると左の木間越しに金剛葛城山が垣間見へ、道標が立つ中弛みにでる。
「百貝岳」0.5Kmの案内を見て“老骨に鞭打って咤激励”木段崩れの急坂を登る。やっとの事で上り切った山頂には昔ながら東屋があり、古い“山想遊行”のペナントが残っていた。標高861mの山頂からの眺望は無いが、涼しい風が吹き抜けていた。
 下山は吉野山奥千本と鳳閣寺を結ぶ縦走路へ向かってくだる。尾根の中弛みに「吉野山方面」と「鳳閣寺方面」を示す道標がある。「鳳閣寺方面」を選び、尾根を直進したが踏跡が乱れ、赤テープが左右の尾根に巻かれ分り難い。下手をすれば尾根を直進しそうである。
左下へ向かう支尾根を選んで下ると“丸い道標”に出会う。ここから少し行くと吉野山奥千本と鳳閣寺を結ぶ縦走路へでる。縦走路も、かなり荒れた感じがした。鳳閣寺まで0.5kmの距離を示す道標から寺の境内までが遠く感じた。(小さい写真はクリックで拡大)


台高山脈・和佐羅滝

2024-08-10 15:48:42 | Weblog
連日、35℃越えの猛暑、何処か身近なところで涼しい所は無いかナ~?とアレコレ考えてみましたが、アプローチが1時間30分程度で高低差が200㍍以内が条件。加えて足元のおぼつかないジジイが安心して行ける滝のある沢は、なかなか見つかりません・・・。
過去の資料と記憶をひっくり返し、辿り着いた目標が“大又の和佐羅滝”でした。あそこなら、何度も通った道、写真講座で数回行った場所だ。
ここ10年近く行っていないけど、多分行けるはず、もしダメなら引き返す事も、それほど難しくない道である。和佐羅滝は標高540㍍の位置にあって涼しいはず( ^ω^)・・・、
8月7日(水)コンビニで弁当を購入して、涼しさを期待して出かけました。
大又の昔のバス終点に車を置き、又迫谷出合の以前バス停が所までもどると和佐羅滝・国見山登山口の案内版が立っていた。今の登山道が出来る前までは又迫谷に沿って吉野農林学校跡付近まで行って、右股から台高山脈稜線へ出たっけナァ・・・・。

又迫谷右岸の道は鉄の橋を渡って、左岸に移ると間もなく“登山道と谷道”の道標がある分岐にであう。和佐羅滝へは、左の沢沿いの道を選ぶ。あまり人が入らないのか、幾つかある間伐材の桟橋が朽ちかけていた。小さな村の水源施設を過ぎれば、沢に出る。
木陰を選んでザックを置いて、先ずは和佐羅滝へゆく。滝風が涼しい!しばらく滝の流れを眺めてからフイックスを頼りに降りて、沢の流れや小滝を撮影して、しばらく遊んでいいたが、やっぱり暑くて汗が流れる。
弁当を食べて一休みして帰りの道を考えてみる。和佐羅滝左岸の樹林帯を登ればコンタ70㍍程度で上の登山道に出られるが、そこからの下りが標高差180㍍、最後はかなり急坂である。やっぱり来た道を帰るのが無難である。

登山道と谷道の道標がある分岐を過ぎ、鉄の橋を渡る時、行きには気がつかなかったが“熊出没!注意”が書かれて。数年まえ、栃木の岳友が熊に襲われ重傷を負った事を思い出し、今更ながらヒヤリとさせられた。幸い熊にも人にも出会わなかったが、橋の袂で“ヤマカガシ”が鎌首をふり挙げ、あまり嬉しくない見送りをしてくれた。(小さい写真はクリックで拡大)

馬見丘陵の“黒いひまわり”

2024-08-05 13:40:53 | Weblog

“危険な暑さ”で高齢者は日中、出歩かないように!と注意報が出ている8月2日(金)の朝、夜間も窓は開けっ放しの書斎の温度計を見ると34℃を示していた。
注意報が出ているのに出歩いて“行倒れ”になって人に迷惑をかけたら、「もう~!知らんでぇ、徘徊オジ~ン!」と言う娘の言葉を背中に聞いて、家を後にした。
目的地の馬見丘陵公園に着いたのは午前10時少し前、車を降りると、コンクリートの地面から熱風が全身を包み込み、腕時計の温度計は37℃を示し、蒸せるような暑さだ。
出かける前に、お目当ての花が何処に咲いているのか、調べて来れば良いものを、中央エリア入口の駐車場に来たものだから、乙女山古墳の先にある北エリアの花見茶屋まで歩く事になった。(ドジ~!)


クロユリの色にも似た“黒いひまわり”とホワイトライトと言う、“白いひまわり”の花に出会えるラストチャンスかも・・・(冥途の土産にする?)。
公園館東側に咲くサルスベリに迎えられて、大汗かきながら北公園へ向かいました。中央エリアと北エリアの丁度、中間にあるトンネルのベンチで休憩。水分補給してミストが噴出ている花見茶屋広場の前まで辿り着きました。ミストを浴びながら前を眺めるとサルスベリの木立の手前に“黒いひまわり”と “白いひまわり”の花畑が見えました。

「ひまわりウイーク」最終日の2日前でしたが、“今日を限り”のように、青空に向かって咲き誇っている花に出会うことが出来ました。(小さい写真はクリックで拡大)