最近、第二次大戦前後の日系アメリカ人のドラマがTBSで放送され、好視聴率だったようで…
私は見なかったのですが、このドラマで442部隊のことが描かれていたようなので、こちらの記事を紹介します。とっても感動しました。ブログ「ねずきちのひとりごと」より以下転載↓
442部隊については、以前にもいちど書いているのですが、実は442部隊が、今度映画化されるのです。
ちょっと映画のテロップをご紹介します。
~~~~~~~~~~~~~
アメリカ史上最強の陸軍部隊とは何か?
それは「442連隊」である。
「442連隊」とは二次大戦時に日系人で編成された部隊。
彼らはヨーロッパ戦線でファシズムと戦い、また祖国アメリカでの差別と戦い、二つの敵に立ち向かい勝利した兵士達である。
≪オフィシャルサイト≫
http://www.442film.com/
~~~~~~~~~~~~~
正式名称は、第442連隊戦闘団(英:442nd Regimental Combat Team)です。
第二次世界大戦中の米国陸軍において、日系アメリカ人のみで編成された部隊です。
部隊の要員数は、3800名です。
ヨーロッパ戦線に投入され、枢軸国相手に勇戦敢闘し、のべ死傷者数9486人という激闘をします。
442部隊の獲得した名誉勲章は21です。
名誉勲章と言うのは、米軍における最高の栄誉です。
21というのは米国史上、最多の叙勲です。
他に、陸軍殊勲十字章が52、銀星章が560、勲功章22、陸軍軍人章15、銅星章4000、樫葉賞が1200、名誉戦傷章9486、大統領部隊感状7枚の褒章を受けています。圧倒的な数です。
ちなみに、第442連隊として7枚目の「大統領部隊感状」は、トルーマン大統領が自らの手で連隊旗に括り付けた。これは合衆国陸軍では初めての出来事です。
また、ひとつの連隊で7枚という数字も合衆国陸軍で過去最多受賞です。
昭和18(1943)年2月、日系人による連隊規模の部隊が編制されることが発表されたとき、約1万人の応募が殺到しました。
募集定員は、1500名です。
いくら定員だからといっても、殺到した日本人たちは、どうしても部隊に参加させろと言って聞かない。
日ごろ従順な日系人にしては、めずらしいことです。
米軍の警備兵が、いくら殴ろうが叩こうが怒鳴ろうが、選んでくれるまで帰らないというのです。
やむなく米軍は定員を1000人増やし、2500名とするのだけれど、それでも収拾がつきません。
結局442部隊は、応募者全員の中から、屈強な若者3800名の連隊として発足します。
彼らは、最激戦地に派遣されます。
そのため戦死が相次ぎ、追加募集の結果、当初応募した全員が、結果、戦地に派遣されています。
つまり、1500名の枠に応募した1万人が、最終的にほぼ全員、戦地に赴いた。
442部隊の発足に関しては、そもそものところからお話をすすめる必要があります。
それは以前、「アロハ・オエ」で書かせていただいたことです。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-406.html
要約すると、ハワイ王国が滅亡の危機に瀕したとき、ハワイ国王の要請で、明治18(1885)年に、日本人2万5000人がハワイに入植したのです。
当時のハワイの人口は、わずか5万7000人です。
もともと30万人いた人口が、白人の襲来によって、わずかの間に約6万人にまで減ってしまったのです。
ハワイの滅亡を案じた国王は、明治天皇に、日本人のハワイ入植を依頼します。
天皇はお断りなされたのだけれど、民間で入植団が組まれ、その結果約3万人がハワイに向かった。
そして日系人たちが、二世・三世となり、ハワイにすっかりなじんだ昭和16(1941)年12月、日本と米国が戦争に突入したわけです。
この時点で、ハワイは米国の領土ではありません。
ひらたくいえば、米国に一方的に統治された「地域」でした。
このあたりよく誤解する人がいるのですが「武力を持たなければ戦争は起こらない」という言葉は、きわめて不適切です。
圧倒的な国力・軍事力の差があったとき、武力を持たない小国に住む人々は、勝手に土地を奪われ、強国に蹂躙され支配され、食料や物資、労働力を徴発される。
徴発される武力のない国の人々には、「独立自尊」はありません。
意思も人格もプライドも私有財産も認められない。
それが「支配される」ということです。
「甘え」はありません。
ハワイはこうして白人たちに土地の3分の2を奪われ、国家としての独立も個人の財産もなにもかもが奪われてしまいます。
そして人口の8割を失い、わずか57000人の住む島となった。
このままいけば、ハワイの人々は、南米の国々と同じように、全員が白人種との混血になってしまう。
そこでハワイ国王が選んだのが、日本人の入植だったわけです。
同じ東洋系の人種であり、しかも日本は東亜最後の独立国として、立派に戦い、世界の強国の仲間入りを果たしている。
その日本人が多数入植することで、結果として生き残ったハワイ人が守られる。
世界の強国のひとつである日本人がいることで、米国人は他の領有地でのような横暴な振る舞いはできなかったのです。
こういうことを書くと、そんなバカな、と思われるかもしれません。
しかしそれが世界史の真実なのです。
(中略)
ハワイの王様にしてみれば、こうした当時の世界の状況の中で、ハワイの独立をいかに保つか、ハワイの人々の暮らしをいかにして守るかは、たいへん大きな悩みであり、課題だったわけです。
そして、日本人の入植を大歓迎して招き入れた。
米国がハワイの女王に圧力をかけて無理やり退位を迫ったとき、東郷平八郎が戦艦を率いてハワイの警護に赴いています。
このとき女王が作詞作曲したのが、アロハ・オエの歌です。
しかし、強国日本を背景にした日系人がいるハワイに、大東亜戦争の開戦によって、米国は牙を剥きだします。
昭和17(1942)年2月には、アメリカ西海岸に居住していた日系人約12万人の全財産を没収し、全米10か所の強制収容所に入れたのです。
世界中、誰がどうみても、財産没収、強制収容は、米国の横暴です。
ですが米国にしてみれば、長年、目の上のタンコブだったハワイの日系人を葬るには、これがチャンスだった。
日本政府は、世界に向けて、米国の日系人財産没収と強制収用を糾弾します。
「理」は、あきらかに日本にあるのです。
米国は世界の非難を横道にそらすため、日系人による戦闘部隊の編成を決定します。
要するに日系人を米国民として処遇しているというポーズをとったわけです。
昭和18(1943)年2月、日系人による連隊規模の部隊が編制されることが発表されます。
強制収容所内などにおいて志願兵の募集が始まった。
日系人たちは、米国と日本と、2つの祖国の狭間に悩みます。
そこにもたらされたのが、東條英機首相の手紙です。
そこには、
~~~~~~~~~~~~~~~
日系人は、祖国アメリカに忠誠を尽くせ
~~~~~~~~~~~~~~~
としたためてあった。
しかし、祖国アメリカのために忠誠を尽くすとなれば、もしかすると日系人と日本人が干戈(かんか)を交えることになるかもしれない。
それでも、いま住んでいる国に忠誠を尽くせというのです。
東條英機の手紙は、まさに武士道の極みです。
これによって、日系人たちの意思は固まります。
そして、いざ、部隊の募集が始まったときの状況が、冒頭のものだった。
厳しい訓練ののち、部隊編制が発表されます。
部隊名は第442連隊です。
歩兵連隊を中核に、砲兵大隊、工兵中隊を加えた独立戦闘可能な連隊戦闘団です。
昭和18(1943)年9月、訓練を終えた442部隊はイタリアのサレルノに上陸します。
29日には、はやくもドイツ軍と遭遇し、そこで初の戦死者を出した。
昭和19(1944)年1月から2月にかけては、ドイツ軍の防衛線「グスタフ・ライン」の攻防を行います。
そして同年5月の、ローマ南方の防衛線では、「カエサル・ライン」を突破。
ローマへの進撃の途上で、激戦地モンテ・カッシーノでの戦闘でも大奮戦をします。
442部隊は、多大な犠牲を払いながらローマを目指したのです。
ところが連戦に次ぐ連戦で、多大な犠牲を払いながらいよいよローマに入場となったとき、442部隊に停止命令が出されます。
そして、後からやってきた白人部隊がローマに入城。
ローマ解放の栄誉を手にします。
昭和19(1944)年9月、442部隊はフランスへ移動します。
10月にはフランス東部
アルザス地方の山岳地帯で戦闘。
ブリュイエールの街を攻ブリュイエールの町の通りには、「第442連隊通り」という名の道があります。
それだけすさまじい激戦があったのです。
しかし、多大な犠牲を払いながらも、名誉は与えられない。
そんな442部隊に、転機が訪れたのは、この年の10月のことです。
米国第34師団テキサス州兵によって編成されていたテキサス大隊が、ドイツ軍に包囲されるという事件が起きたのです。
すでに2万人の米軍がテキサス部隊救出に赴き、死んでいます。
それでもドイツ軍の重包囲はビクともしなかった。
テキサス大隊は“救出困難”とされ、テキサス大隊は「失われた大隊」 (Lost battalion) とまで呼ばれてしまいます。
ようするに、もはや救出困難と見切りをつけざるを得ない状況になっていたのです。
そのテキサス大隊の救出命令が、442部隊に下された。
なにもかもを行ったあげく全てが失敗に帰し、最後に捨て駒だった日系人部隊を放り込んだのです。
死ぬとわかっている戦いです。
それを強制するため、文句を言わせないように命令はフランクリン・ルーズベルト大統領による直命であるとした。
2万人を投じてもダメだったのです。
それを、わずか3000名の部隊に委ねるには、それなりの権威が必要だったのです。
442部隊は、その時点では、フランス東部の山岳地帯で戦いをしていました。
戦いの途中で休養もなく移動した彼らは、その日のうちにボージュの森で待ち受けていたドイツ軍と激しい戦闘を繰り広げた。
激闘は1週間続きます。
そして442部隊は、ついにテキサス大隊を救出した。
逸話があります。
救出直後、442部隊とテキサス大隊は抱き合って喜んだそうです。
このとき、テキサス大隊のバーンズ少佐が、
「ジャップ部隊なのか」と言ったのです。
これに442部隊の一少尉が怒った。
「俺たちはアメリカ陸軍442部隊だ。言い直せっ!」
その迫力に、バーンズ少佐は謝罪して敬礼したといいます。
この作戦の2週間後、11月11日の第一次世界大戦休戦記念日に、ダールキスト米陸軍少将が442部隊を閲兵しました。
集合した戦闘団を見て、ダールキスト少将が不機嫌になります。
「部隊全員を整列させろといったはずだ!」
442部隊の連隊長代理が答えます。
「目の前に並ぶ兵が全員です」
442部隊は、211名のテキサス大隊奪還作戦で、約2800名いた兵員が1400名に減少していたのです。
この戦闘は、後にアメリカ陸軍の十大戦闘に数えられています。歴史に残る大激戦だったのです。
米本土の日系人強制収容所から、補充兵が送られ、再編成を行った442部隊は、ドイツへと移動します。
そして戦闘の末、ミュンヘン近郊にあるドイツ軍のダッハウの強制収容所の解放を行います。
しかし日系人部隊が強制収容所を解放した事実は、なんと平成4(1992)年まで、公にされていません。
それでも、そういう重要な事実を隠されてでも、442部隊は、米国史上、もっとも多くの勲章を受けた部隊となりました。
442部隊には、別名があります。
「名誉戦傷戦闘団(Purple Heart Battalion)」というものです。
それだけ多くの死傷者を出した。
結局、442部隊は、わずか2年弱の活動期間の中で、総計1万8千もの勲章や賞を受けています。
こうした輝かしい武功をあげながら、戦争終了後も、アメリカ白人の日系人に対する人種差別は変わりません。
戦争が終わり、442部隊が解散して米国本土に復員すると、そこで兵士たちを待っていたのは
「ジャップを許すな」
「ジャップおことわり」
といったアメリカ人たちの冷たい言葉です。
激しい偏見によって、復員兵たちは仕事につくこともできず、財産や家も失われたままの状態に置かれました。
このような反日系人的な世論が変化するのは、昭和30年代も後半になってからのことです。
この頃、米国内での人権意識、公民権運動の高まりの中で、日系人はにわかに「模範的マイノリティー」として賞賛されるようになったのです。
日系人は3つのイメージで語られます。
1 きれい好き
2 礼儀ただしく約束を守る
3 442部隊の勇猛さ
ジャパンタウンは、とても清潔です。
さて、第二次大戦後にいったん解体した442部隊は、昭和43(1968)年に、再編成されます。
そうです。
ベトナム戦争が始まったのです。
また、平成17(2005)年3月には、ハワイ州兵大隊の一つとして、イラク戦争に従軍しています。
442部隊の伝統を受け続ぐ米国日系人たちは、いまだに、勇敢に闘い続けているのです。
(続く)
私は見なかったのですが、このドラマで442部隊のことが描かれていたようなので、こちらの記事を紹介します。とっても感動しました。ブログ「ねずきちのひとりごと」より以下転載↓
442部隊については、以前にもいちど書いているのですが、実は442部隊が、今度映画化されるのです。
ちょっと映画のテロップをご紹介します。
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アメリカ史上最強の陸軍部隊とは何か?
それは「442連隊」である。
「442連隊」とは二次大戦時に日系人で編成された部隊。
彼らはヨーロッパ戦線でファシズムと戦い、また祖国アメリカでの差別と戦い、二つの敵に立ち向かい勝利した兵士達である。
≪オフィシャルサイト≫
http://www.442film.com/
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正式名称は、第442連隊戦闘団(英:442nd Regimental Combat Team)です。
第二次世界大戦中の米国陸軍において、日系アメリカ人のみで編成された部隊です。
部隊の要員数は、3800名です。
ヨーロッパ戦線に投入され、枢軸国相手に勇戦敢闘し、のべ死傷者数9486人という激闘をします。
442部隊の獲得した名誉勲章は21です。
名誉勲章と言うのは、米軍における最高の栄誉です。
21というのは米国史上、最多の叙勲です。
他に、陸軍殊勲十字章が52、銀星章が560、勲功章22、陸軍軍人章15、銅星章4000、樫葉賞が1200、名誉戦傷章9486、大統領部隊感状7枚の褒章を受けています。圧倒的な数です。
ちなみに、第442連隊として7枚目の「大統領部隊感状」は、トルーマン大統領が自らの手で連隊旗に括り付けた。これは合衆国陸軍では初めての出来事です。
また、ひとつの連隊で7枚という数字も合衆国陸軍で過去最多受賞です。
昭和18(1943)年2月、日系人による連隊規模の部隊が編制されることが発表されたとき、約1万人の応募が殺到しました。
募集定員は、1500名です。
いくら定員だからといっても、殺到した日本人たちは、どうしても部隊に参加させろと言って聞かない。
日ごろ従順な日系人にしては、めずらしいことです。
米軍の警備兵が、いくら殴ろうが叩こうが怒鳴ろうが、選んでくれるまで帰らないというのです。
やむなく米軍は定員を1000人増やし、2500名とするのだけれど、それでも収拾がつきません。
結局442部隊は、応募者全員の中から、屈強な若者3800名の連隊として発足します。
彼らは、最激戦地に派遣されます。
そのため戦死が相次ぎ、追加募集の結果、当初応募した全員が、結果、戦地に派遣されています。
つまり、1500名の枠に応募した1万人が、最終的にほぼ全員、戦地に赴いた。
442部隊の発足に関しては、そもそものところからお話をすすめる必要があります。
それは以前、「アロハ・オエ」で書かせていただいたことです。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-406.html
要約すると、ハワイ王国が滅亡の危機に瀕したとき、ハワイ国王の要請で、明治18(1885)年に、日本人2万5000人がハワイに入植したのです。
当時のハワイの人口は、わずか5万7000人です。
もともと30万人いた人口が、白人の襲来によって、わずかの間に約6万人にまで減ってしまったのです。
ハワイの滅亡を案じた国王は、明治天皇に、日本人のハワイ入植を依頼します。
天皇はお断りなされたのだけれど、民間で入植団が組まれ、その結果約3万人がハワイに向かった。
そして日系人たちが、二世・三世となり、ハワイにすっかりなじんだ昭和16(1941)年12月、日本と米国が戦争に突入したわけです。
この時点で、ハワイは米国の領土ではありません。
ひらたくいえば、米国に一方的に統治された「地域」でした。
このあたりよく誤解する人がいるのですが「武力を持たなければ戦争は起こらない」という言葉は、きわめて不適切です。
圧倒的な国力・軍事力の差があったとき、武力を持たない小国に住む人々は、勝手に土地を奪われ、強国に蹂躙され支配され、食料や物資、労働力を徴発される。
徴発される武力のない国の人々には、「独立自尊」はありません。
意思も人格もプライドも私有財産も認められない。
それが「支配される」ということです。
「甘え」はありません。
ハワイはこうして白人たちに土地の3分の2を奪われ、国家としての独立も個人の財産もなにもかもが奪われてしまいます。
そして人口の8割を失い、わずか57000人の住む島となった。
このままいけば、ハワイの人々は、南米の国々と同じように、全員が白人種との混血になってしまう。
そこでハワイ国王が選んだのが、日本人の入植だったわけです。
同じ東洋系の人種であり、しかも日本は東亜最後の独立国として、立派に戦い、世界の強国の仲間入りを果たしている。
その日本人が多数入植することで、結果として生き残ったハワイ人が守られる。
世界の強国のひとつである日本人がいることで、米国人は他の領有地でのような横暴な振る舞いはできなかったのです。
こういうことを書くと、そんなバカな、と思われるかもしれません。
しかしそれが世界史の真実なのです。
(中略)
ハワイの王様にしてみれば、こうした当時の世界の状況の中で、ハワイの独立をいかに保つか、ハワイの人々の暮らしをいかにして守るかは、たいへん大きな悩みであり、課題だったわけです。
そして、日本人の入植を大歓迎して招き入れた。
米国がハワイの女王に圧力をかけて無理やり退位を迫ったとき、東郷平八郎が戦艦を率いてハワイの警護に赴いています。
このとき女王が作詞作曲したのが、アロハ・オエの歌です。
しかし、強国日本を背景にした日系人がいるハワイに、大東亜戦争の開戦によって、米国は牙を剥きだします。
昭和17(1942)年2月には、アメリカ西海岸に居住していた日系人約12万人の全財産を没収し、全米10か所の強制収容所に入れたのです。
世界中、誰がどうみても、財産没収、強制収容は、米国の横暴です。
ですが米国にしてみれば、長年、目の上のタンコブだったハワイの日系人を葬るには、これがチャンスだった。
日本政府は、世界に向けて、米国の日系人財産没収と強制収用を糾弾します。
「理」は、あきらかに日本にあるのです。
米国は世界の非難を横道にそらすため、日系人による戦闘部隊の編成を決定します。
要するに日系人を米国民として処遇しているというポーズをとったわけです。
昭和18(1943)年2月、日系人による連隊規模の部隊が編制されることが発表されます。
強制収容所内などにおいて志願兵の募集が始まった。
日系人たちは、米国と日本と、2つの祖国の狭間に悩みます。
そこにもたらされたのが、東條英機首相の手紙です。
そこには、
~~~~~~~~~~~~~~~
日系人は、祖国アメリカに忠誠を尽くせ
~~~~~~~~~~~~~~~
としたためてあった。
しかし、祖国アメリカのために忠誠を尽くすとなれば、もしかすると日系人と日本人が干戈(かんか)を交えることになるかもしれない。
それでも、いま住んでいる国に忠誠を尽くせというのです。
東條英機の手紙は、まさに武士道の極みです。
これによって、日系人たちの意思は固まります。
そして、いざ、部隊の募集が始まったときの状況が、冒頭のものだった。
厳しい訓練ののち、部隊編制が発表されます。
部隊名は第442連隊です。
歩兵連隊を中核に、砲兵大隊、工兵中隊を加えた独立戦闘可能な連隊戦闘団です。
昭和18(1943)年9月、訓練を終えた442部隊はイタリアのサレルノに上陸します。
29日には、はやくもドイツ軍と遭遇し、そこで初の戦死者を出した。
昭和19(1944)年1月から2月にかけては、ドイツ軍の防衛線「グスタフ・ライン」の攻防を行います。
そして同年5月の、ローマ南方の防衛線では、「カエサル・ライン」を突破。
ローマへの進撃の途上で、激戦地モンテ・カッシーノでの戦闘でも大奮戦をします。
442部隊は、多大な犠牲を払いながらローマを目指したのです。
ところが連戦に次ぐ連戦で、多大な犠牲を払いながらいよいよローマに入場となったとき、442部隊に停止命令が出されます。
そして、後からやってきた白人部隊がローマに入城。
ローマ解放の栄誉を手にします。
昭和19(1944)年9月、442部隊はフランスへ移動します。
10月にはフランス東部
アルザス地方の山岳地帯で戦闘。
ブリュイエールの街を攻ブリュイエールの町の通りには、「第442連隊通り」という名の道があります。
それだけすさまじい激戦があったのです。
しかし、多大な犠牲を払いながらも、名誉は与えられない。
そんな442部隊に、転機が訪れたのは、この年の10月のことです。
米国第34師団テキサス州兵によって編成されていたテキサス大隊が、ドイツ軍に包囲されるという事件が起きたのです。
すでに2万人の米軍がテキサス部隊救出に赴き、死んでいます。
それでもドイツ軍の重包囲はビクともしなかった。
テキサス大隊は“救出困難”とされ、テキサス大隊は「失われた大隊」 (Lost battalion) とまで呼ばれてしまいます。
ようするに、もはや救出困難と見切りをつけざるを得ない状況になっていたのです。
そのテキサス大隊の救出命令が、442部隊に下された。
なにもかもを行ったあげく全てが失敗に帰し、最後に捨て駒だった日系人部隊を放り込んだのです。
死ぬとわかっている戦いです。
それを強制するため、文句を言わせないように命令はフランクリン・ルーズベルト大統領による直命であるとした。
2万人を投じてもダメだったのです。
それを、わずか3000名の部隊に委ねるには、それなりの権威が必要だったのです。
442部隊は、その時点では、フランス東部の山岳地帯で戦いをしていました。
戦いの途中で休養もなく移動した彼らは、その日のうちにボージュの森で待ち受けていたドイツ軍と激しい戦闘を繰り広げた。
激闘は1週間続きます。
そして442部隊は、ついにテキサス大隊を救出した。
逸話があります。
救出直後、442部隊とテキサス大隊は抱き合って喜んだそうです。
このとき、テキサス大隊のバーンズ少佐が、
「ジャップ部隊なのか」と言ったのです。
これに442部隊の一少尉が怒った。
「俺たちはアメリカ陸軍442部隊だ。言い直せっ!」
その迫力に、バーンズ少佐は謝罪して敬礼したといいます。
この作戦の2週間後、11月11日の第一次世界大戦休戦記念日に、ダールキスト米陸軍少将が442部隊を閲兵しました。
集合した戦闘団を見て、ダールキスト少将が不機嫌になります。
「部隊全員を整列させろといったはずだ!」
442部隊の連隊長代理が答えます。
「目の前に並ぶ兵が全員です」
442部隊は、211名のテキサス大隊奪還作戦で、約2800名いた兵員が1400名に減少していたのです。
この戦闘は、後にアメリカ陸軍の十大戦闘に数えられています。歴史に残る大激戦だったのです。
米本土の日系人強制収容所から、補充兵が送られ、再編成を行った442部隊は、ドイツへと移動します。
そして戦闘の末、ミュンヘン近郊にあるドイツ軍のダッハウの強制収容所の解放を行います。
しかし日系人部隊が強制収容所を解放した事実は、なんと平成4(1992)年まで、公にされていません。
それでも、そういう重要な事実を隠されてでも、442部隊は、米国史上、もっとも多くの勲章を受けた部隊となりました。
442部隊には、別名があります。
「名誉戦傷戦闘団(Purple Heart Battalion)」というものです。
それだけ多くの死傷者を出した。
結局、442部隊は、わずか2年弱の活動期間の中で、総計1万8千もの勲章や賞を受けています。
こうした輝かしい武功をあげながら、戦争終了後も、アメリカ白人の日系人に対する人種差別は変わりません。
戦争が終わり、442部隊が解散して米国本土に復員すると、そこで兵士たちを待っていたのは
「ジャップを許すな」
「ジャップおことわり」
といったアメリカ人たちの冷たい言葉です。
激しい偏見によって、復員兵たちは仕事につくこともできず、財産や家も失われたままの状態に置かれました。
このような反日系人的な世論が変化するのは、昭和30年代も後半になってからのことです。
この頃、米国内での人権意識、公民権運動の高まりの中で、日系人はにわかに「模範的マイノリティー」として賞賛されるようになったのです。
日系人は3つのイメージで語られます。
1 きれい好き
2 礼儀ただしく約束を守る
3 442部隊の勇猛さ
ジャパンタウンは、とても清潔です。
さて、第二次大戦後にいったん解体した442部隊は、昭和43(1968)年に、再編成されます。
そうです。
ベトナム戦争が始まったのです。
また、平成17(2005)年3月には、ハワイ州兵大隊の一つとして、イラク戦争に従軍しています。
442部隊の伝統を受け続ぐ米国日系人たちは、いまだに、勇敢に闘い続けているのです。
(続く)
ただ、ただひと言…
ありがとう
涙が止みません
ありがとう U+203C!
本当にありがとう