写真は、大洗の願入寺住職宛ての軸装された書状にある、光圀の署名です。水戸市市立博物館で見ました。
光圀の小姓が、吉原で3人を切るという刃傷沙汰(にんじょうざた)を起こしたそうです。吉原の大門(おおもん)は閉じられたそうですが、なじんだ遊女が、その小姓をつづらの中に隠して、吉原から脱出させたそうです。事は顕れて小姓は閉門になったそうですが、その後、光圀は小姓に金子(きんす)を与えてその遊女を吉原から請け出させ、妻にさせたそうです。
水戸藩内であった、現・日立市にある大雄院で、観月の夕べに、光圀が「今宵の月は屁に似たり」といったそうです。近侍が首をひねると、心は「草木を現す」(「草木が月の光でよく見える」ということの「草木」と「臭き」をかける)と解くと、大雄院の交易和尚は、「ただ昼昼」(「まったくの昼だ」という意味の「昼」と「(屁を)ひる」をかける)と言い添えたそうです。
将軍・徳川綱吉擁立の功で大老になった堀田正俊が、貞享1年(1684)に江戸城で若年寄・稲葉正休(まさやす)に切られて死去したそうです。その際、正休は討ち果たされ、家は改易になったそうです。事件の日、光圀は登城していて、「その場で切り捨てたのは粗忽の挙動」と老中らを難詰したそうです。そして江戸城からの帰りがけには、稲葉の館へ寄って、内室に悔やみを述べていったそうです。
光圀は、隠居後に、西山荘門前の田地で、部下に作業をさせて、試しの稲作をやってみたそうです。ずいぶん実りはよかったそうですが、年貢の分と、田主への礼物を差し引くと、剰りは幾多もなかったそうです。それを見て、田を持たない百姓が小作することを不憫に思ったということです。
光圀は、茶ちりめんの頭巾をいくら古くなっても取りかえようとせず、同じものを40年間も使用したそうです。西山荘に隠居してから、光圀の養継嗣である綱條(つなえだ)が蒲団を贈ったそうですが、こんな贅沢品は使えないと利用しなかったそうです。
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