佐々宗淳
佐々宗淳(さっさむねきよ)は、黄門話の助さんのモデルだそうですが、彰考館の総裁になった人で、引退後西山荘に住んだ徳川光圀に仕えたそうです。温厚で細かいことにこだわらない無口な人だったそうですが、酒が好きだったそうです。常陸太田市増井町、正宗寺の墓脇にある、安積澹泊(あさかたんぱく 格さんのモデル)撰文という墓誌には、「善(よ)ク酒ヲ飲ミ家貧シクモ晏如(あんじょ おちついてやすらかなさま)タリ」とあるようです。写真は最近復元されたらしい、「佐佐介三郎宗淳畧伝」と彫られた墓誌です。
柴山市次郎拝受の盃(水戸市立博物館 大町3-3-20)
下金町の商人・柴山市次郎が、7代藩主・治紀(はるとし)から拝領した盃だそうです。この文化7年(1810)に柴山は、3回も水戸城にのぼり、治紀に拝謁しているそうです。その3回目に盃を、大廊下で酒飯を賜わったそうです。その際に、御目見得格(おめみえかく)になったそうですので、よほどの献金をしたのでしょう。盃や酒飯で、大金が入るのですから藩にとってはありがたかったでしょうが、大赤字の藩財政にとっては大海の一滴だったことでしょう。写真は水戸市立博物館で見た、拝領した三つ重ねの盃の一つです。
にごり酒、四分一
水戸では江戸時代、にごり酒がそうとう飲まれていたようです。濁り酒屋が処々にあったそうで、濁り酒に清酒を加えたものを四分一(清酒が1/4ということなのでしょう)といったそうです。小宮山楓軒の父は、友とともに飲むのはかならず四分一だったそうです。生活の苦しかった水戸の酒好き武士にとっては、にごり酒は必需品だったのでしょうか。「風軒偶記」にありました。
寺への年始
以前は正月にお寺へは檀家が一軒残らず年始の挨拶に行ったそうです。1日から3日までおこなわれたそうで、寺では樽を準備して、年酒として檀家に振る舞ったそうです。「生酔(なまよい)の礼者を見れば大道を. 横筋違(よこすじかい)に春は来にけり」(太田蜀山人狂歌、酔っ払った年始客が道を斜めに歩いている様子のようです)といった景色が見られたことでしょう。今あったらいいのにと思うのは年寄りだけでしょうか。
ときわ路ほろよい号(水戸市民会館 泉町1-7-1)
JR東日本による地酒列車がここ数年、毎年おこなわれているようです。写真は今年の3月に行われた、「ときわ路ほろよい号」のヘッドマークだそうです。水戸-土浦間を走ったそうで、ヘッドマークの中には、土浦の蓮根や、水戸の梅が描かれているようです。ほろよい号の名称は、絶対に過小表示だったでしょうが…。水戸市民会館で開催されたJR東日本水戸支社のイベントで見ました。
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