ぶらっと 水戸

水戸の見て歩き

水戸の銅像(3)

2016-12-18 21:32:13 | 水戸

伊奈忠次
 備前堀、道明橋上にあります。
 小田原北条攻めのとき、豊臣秀吉が、忠次(ただつぐ)の手腕をほめて、自分なら一万石以上は与えるといったので、徳川家康は江戸にはいるや、武蔵国足立郡小室(現・伊奈町)に1万石を与えたそうです。関東郡代のトップ(頭)となり、各地で検地や、治水、新田開発をおこなったそうです。埼玉県鴻巣市の勝願寺に眠っているそうです。

 

加倉井砂山
 木葉下(あぼっけ)町588-1(森林公園)
 成沢で郷士だった父の始めた塾を継いだそうですが、門人の増加で、文政9年(1826)に三楽楼という塾舎を建て、その後さらに新築や増築をおこない、総体を日新塾と呼ぶようになったそうです。30年余で、1000人を越える塾生を育てたそうです。塾生には、斉藤監物(けんもつ)、藤田小四郎、川崎八右衛門などがいたそうです。

 

栗田寛
 本町3-2-29(茨城県信用組合下市支店)前歩道
 本六町目(現・本町3)で生まれたそうです。幕末、藤田東湖、会沢正志斎などに学び、彰考館に出仕して大日本史編纂にたずさわったそうです。明治維新後、新政府に招かれて国史関係の調査に当たったそうです。その一方、水戸に家塾・輔仁(ほにん)学舎を開いたそうですが、塾生には菊池謙二郎、清水正健などがいたそうです。

 

横山大観
 城東2-8(トッパンプロスプリント水戸工場の角)
 宝鏡院門前(現・城東)に生まれたそうです。母校東京美術学校の助教授となりましたが、美校騒動で追放された師の岡倉天心に殉じて辞職して、日本美術院の創設に参加したそうです。その後、五浦(いづら)へ岡倉らとともに移り、新しい日本画を目ざしたそうですが、さらにその後、東京へ戻り、岡倉没後も日本美術院を再興して、その中心となって活躍したそうです。文化勲章受章の第一号だそうです。

 

中村彝
 千波町東久保697(茨城県立県民文化センター)
 寺町(現・金町)に生まれたそうです。結核になり転地療養をした千葉県でスケッチを始め、戻った東京で、白馬会洋画研究所にはいり、黒田清輝の指導を受けたそうです。新宿中村屋に住んだ後、同じ水戸出身の高橋義雄の援助でできたアトリエで、「田中館博士の像」、「エロシェンコ氏の肖像」などを描いたそうです。この像は、堀進二の製作だそうです。


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