ぶらっと 水戸

水戸の見て歩き

水戸の土塁(2)

2023-09-28 21:28:05 | 水戸

天徳寺(河和田町914-1)
 入口にある冠木門に向かって右側にある河和田城の土塁です。天徳寺には周囲に土塁がけっこう残っているようです。河和田城は、建武3年(1336)に大掾(だいしょう)氏の家臣・鍛冶弾正(かじだんじょう)貞国が水戸城の支城として建てたという説があるそうです。その後、江戸氏(通景)の拠点となり、江戸氏が水戸城を奪ってからは、家臣の春秋(はるあき)氏が西の守りとして入ったそうですが、佐竹氏に江戸氏が滅ぼされて廃城になったそうです。河和田城は、東西約510m、南北約600mという規模の中世の平城(ひらじろ)だったそうで、天徳寺、報仏寺、八坂神社、河和田小学校を含む広いものだったようです。

 

報仏寺(河和田町887)
 報仏寺は河和田城の一角だったそうで、寺の山門あたりに大手門があったようです。ここも、寺の周囲に土塁がよく残っているようです。写真土塁裏側には堀も残っているようです。

 

中崎家(鯉淵町2897)
 中崎家の住宅は、元禄時代の建築で現在国の重要文化財だそうですが、この地はその前に鯉淵城があったそうで、住宅はその上に建てられているそうです。鯉淵は江戸通景が、河和田、赤尾関とともに、鎌倉公方・足利氏満から与えられた地で、河和田城を守る拠点という形で鯉淵城を築いたそうです。城跡はほとんど残っていないそうですが、中崎家の西側などに少し見ることができるようです。結構高い二重の土塁があったようにみえます。中崎家は、その堀跡から「堀の内」という屋号で呼ばれているそうです。

 

神生長塁(飯富町 36°26'15.6"N 140°24'26.6"Eあたり)
 江戸氏の臣下だった神生(かのう)氏がつくった、長い土塁のようです。写真あたりから1km以上のびて、成沢町の信号付近にある長塁に接続していたようです。境界堀ではないかともいわれているそうです。地元では馬車道、用水路といわれていたそうで、長塁は道路として使われ、堀には水が流れていたようです。神生氏は、江戸氏の一族と「神生の乱」という争乱をひきおこし、江戸氏の衰勢を早めたそうです。

 

塩崎町民家(塩崎町)
 民家にも土塁が見られました。家の裏手に、しっかりした土塁があり、すぐ近くには樹齢250年のクスノキがありました。土塁はクスノキ以前につくられたのではないかと思いました。写真左側の細い田は、堀の跡でしょうか。

水戸城の土塁
水戸の堀跡


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 水戸の夕日(2) | トップ | 水戸のご神木(4)  »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

水戸」カテゴリの最新記事