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水戸の見て歩き

水戸の城跡(3)

2024-09-16 21:57:44 | 水戸

全隈城(またぐまじょう 全隈町36°25'01.2"N 140°22'56.9"Eあたり)
 農民が自衛のためにつくった「城」の跡だそうで、「村の城」(藤木久志)というそうです。全隈村は江戸氏の支配地域で、すぐ近くが佐竹氏の支配地域との領界だったそうです。佐竹氏の水戸入城によって廃されたらしいとのことです。この地は寺山といわれ、かつてお寺があったそうで、東端あたりに僧侶のお墓があります。空堀跡があったり、東側に、林になっていますが、少し平らな本郭があったらしい場所があります。

 


中崎家(鯉淵町2897)
 西北に土手と空濠の跡がかぎのてに100mくらい残っているそうで、中崎家はその堀の内側にあったので、堀の内と呼ばれているそうです。かつて堀は県道30号線を越えて伸びていたそうです。現在の中崎家の初代は天文5年(1536)の生まれだそうで、茅葺きの建物は国の重要文化財に指定されているそうです。写真は、左に見えるのが重文の住宅、右が空堀や土塁の残っている林地です。裏手から写しました。

 

白石城(表示板 那珂市豊喰36°25'52.1"N 140°27'26.9"Eあたり)
 白石城は、佐竹氏の一族・国井氏の流れが白石に来て、地名を名字にして居住した館だそうです。14世紀後半のことと推定されるそうです。佐竹、江戸氏の戦いで、館主はたびたびかわったそうです。佐竹氏の水戸入城の後、この館は廃城になったらしいとのことです。水戸との境であるこの地は、現在、茨城県 県中央水道事務所などの敷地になっているようです。

 

青柳館(長福寺跡墓地 青柳町794)
 大掾(だいじょう)氏の一族・馬場資幹(すけもと)が、水戸城ができる前の馬場城を築いたそうです。その子孫は周辺に支城を配置したそうです。その一つが青柳館で、今の長福寺墓地のあたりだったそうです。天正年間(1573-72)は、佐竹氏の家臣・青柳隼人正(はやとのしょう)の居館だったそうですが、佐竹氏の秋田移封により廃城となったそうです。

 

平戸館(吉田神社 平戸町1979)
 平戸館は、大掾氏の一族・平戸氏が交通の要衝であった平戸に構えたものだそうです。標高3mという低地に建てられた珍しい館のようです。時の実力者・北条氏、江戸氏などに仕えながら、平戸氏によるこの地域の支配は続いたそうですが、佐竹氏の時代になりそれも終わり、館は廃城となったそうです。写真左方に平戸館跡の碑が見えます。

水戸の城跡(2)


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