ぶらっと 水戸

水戸の見て歩き

水戸にある吉田松陰のゆかり

2019-05-18 11:46:51 | 水戸

 吉田松陰は諸国を歴遊して、多くの人に会ったり、史蹟などを見たりして、自分の世界と学問を広げていったそうです。そうした旅の一つである「東北遊記」に書かれた約4カ月の旅では、その内の約1カ月を水戸で過ごしたようです。カッコ内の日記の文章は読みやすく直しています。

 

 

永井政介の屋敷跡(南町3-4-57)
 嘉永4年(1851)12月19日 「永井政介を訪(と)う。政介あらず。子・芳之介に逢う。余を留(とど)め宿す。」 翌年1月20日、別れに芳之助から詩が送られ、それに対して芳之介に与えたのが石碑にある「四海皆兄弟」で始まる漢詩だそうです。

 

 

会沢正志斎の屋敷跡(南町3-4-9)
 12月21日 「会沢憩斎(けいさい 正志斎)を訪う。即ち恒蔵(通称)なり。」会沢の屋敷には何度も通っているようです。翌年1月14日の記事には、「憩斎今年七十一、矍鑠(かくしゃく)たるかな此の翁(おきな)や。」とあります。1月17日には、「会沢を訪う。会沢を訪うこと数次なるにおおむね酒を設(もう)く。水府の風、他邦の人に接するに歓待はなはだあつく、歓然として欣(よろこ)びを交え、心胸を吐露して隠匿する所なし。たまたま談論の聴(き)くべきものあれば、必ず筆をとりてこれを記す。これその天下の事に通じ、天下の力を得る所以(ゆえん)か。」とあります。

 

 

好文亭(常磐町1-3-3)
 12月26日 「好文亭を観(み)る、偕楽園は即(すなわ)ちこれなり。余かつて景山老公(徳川斉昭)撰(えら)ぶ所の偕楽園の記を読み、またその作る所の歌を聞く。いはく、「世を捨てて 山に入る人 山にても 尚お憂き時は ここを尋ねよ」。けだし公(斉昭)の志見るべし。しかれども今は則(すなわ)ち荒廃す、これが為に唏嘘(ききょ すすり泣き)して去るあたわず。」

 

 

車丹波守(くるまたんばのかみ)憤恨の地
 12月26日 同じ日に、佐竹氏の家臣だった「車丹波の祠(ほこら)を拝す。車は佐竹氏の臣なり。佐竹氏徙封(しほう 秋田への移封)の時、壁(とりで)をまもり戦死すという。」 一緒に行った仲間が車の子孫だったそうです。この後、「千波湖の東に出で、城の東北をめぐりて還(かえ)」ったそうです。

 

 

豊田天功の屋敷跡(新荘小学校 新荘2-11-1)
 嘉永4年(1852)1月12日 「豊田彦次郎(天功)を訪う。彦二郎は学問該博(がいはく)、議論痛快、人をして憮然たらしむ。」 熱っぽい水戸っぽだったのでしょう。

 

 

徳川光圀の筆塚(常照寺 元吉田町2723)
 1月20日 「まさに明旦(明日朝)を以て発せんとし、会沢・豊田・桑原に至りて別れを告ぐ。常照寺うしろの天神社に至り義公の筆塚を拝す。寺は佐竹の支城の故址なり。」 この頃は天神社の方にあったようです。今は常照寺裏庭にあります。見る時はお寺の許可を得ましょう。


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