ぶらっと 水戸

水戸の見て歩き

水戸にないもの(3)

2024-05-23 21:39:47 | 水戸

地名としての本丸・二の丸
 水戸城は、おおざっぱに、本丸、二の丸、三の丸に分かれるようですが、現在の地名では、全部を三の丸としているようです。三の丸跡は三の丸1丁目、二の丸跡は三の丸2丁目、本丸跡は三の丸3丁目だそうです。水戸京成ホテル(三の丸1-4-73)、三の丸ホテル(三の丸2-1-1)、水戸赤十字病院(三の丸3-12-48)なども三の丸だそうです。写真は水戸観光協会が発行した水戸城下町マップ幕末版です。

 

地名としての城北と城西
 城東、城南はありますが、城北と城西という地名はないようです。だいたい、水戸城東側の那珂川と桜川にはさまれた一帯を城東、水戸市役所の東で、西は備前堀あたりまで、北は桜川から南の駅南平和公園通りまでの地を城南というようです。城北、城西という言葉はあまり使われてこなかったのでしょうか。大塚池にある茨城百景碑には、水戸城西ハイキングコースと彫られていました。

 

偕楽園の池と築山
 大名庭園には池や築山(つきやま)があるのが一般的ですが、9代藩主・徳川斉昭のつくった偕楽園には、池も山もなく、たいへん珍しい作り方のようです。偕楽園南端にある南崖下の千波湖と、向かい側の台地にある桜山を借景として使っているのでしょう。写真は、好文亭3F楽寿楼から見た、千波湖と桜山です。千波湖方面には、広々とした平地が広がっています。

 


 「水戸に春秋ありて詩なし」という言葉があるそうです。春秋は歴史書のことをいうようです。大日本史完成に200年の年月と、人物、費用をつかった水戸では、それ以外の詩などの分野は、あまりにぎわうことがなかったということなのでしょう。江戸時代には、林十江らの画家や、立原翠軒という文人の外には、歴史の分野以外で、あまり抜きんでた人は出なかったような気はします。

 

骨董品
 水戸では、幕末の天狗派と諸生派の抗争によって、互いに相手のつぶしあいがおこなわれたようです。死罪になったり脱走した人の家屋敷や家財は、没収して処分してしまったそうです。ですから、藩外に流れ出た物も多かったのでしょう。残った物は十分の一もなかったろうともいわれているそうです。現在どうなのかはよくわかりません。

水戸にないもの(2)


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