【戦利品:3D映像用メガネ】
Nikon D90 + AF-S DX Nikkor 35mm F1.8G
例えば、出来たばかりの豆腐(天然にがり使用/180円税別)を与えられ、
「これを見ながら宇宙と無についての関係を考えろ」
と言われている感じ。
ダンサーであり振付師、演出家でもあったピナ・バウシュ氏を題材にしたヴィム・ヴェンダース監督の作品『pina』、
その映画の内容を自分なりにまとめた感想が冒頭の一文だ。
“映像美”と“身体表現”に圧倒されるつもりで観に行った映画だったのだが、色んな意味で予想を裏切られた。
確かに上記した2つも堪能出来たのだが、
それ以上に、安易に映像を楽しむことを拒否した“観る者への問いかけ”に満ちた映画だった。
“表現とは/創るとは/伝えるとは”というメッセージ~勿論直接的な言葉では無い~を発しながら、
同時に“モノヅクリに携わる者”への問いかけ~お前はどう思う?~がなされていた。
全編通して最初っから最後まで。
本編は“ピナが創りあげた作品(舞台)”に“ヴッパタール舞踊団団員のモノローグ”が挿入されるかたちで進んで行くのだが、
目の前で繰り広げられる映像は「ワタシが到達したismはこうなのだ」という主張であるのと同時に
「で、お前はどう思う?」を問い続ける絶対的な『豆腐』として存在していた。
別に『豆腐』が無くても“宇宙と無についての関係を考える事”は可能だろう。
だが“より深い内省へと向わせる為の装置として『豆腐』の存在は神々しいまでの輝きを放っていた。
【4月12日追記】・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
同じ“踊る”という行為に関しても、クラシック・バレエの表現方法が“具象”だとすれば、
コンテンポラリー・ダンスや舞踊のソレは“抽象”を多く含んだものである。
ただ単に表面上の“美しさ”を追いながら見ることも出来るが、
深読みすればいくらでも“意味”を拾い上げることが可能な対象だ。
“意味”を伝える為に振り付け、演出するピナ。
全神経を集中させ、“意味”を伝える為に肉体を酷使するダンサー達。
その“意味”を映像のマジックにより、よりドラスティックに切り取り、切捨てるヴェンダース監督の手腕は、
公演の記録映像以上にドラマチックに仕上げているが故、“意味探求への意識”をはぐらかそうとさえする。
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この作品に『3D』という映像表現が適していたのかどうかは、正直わからない。
“『豆腐』の存在をより直感的なモノにしていた”一方、“装置としては過剰であった”のかもしれない。
だってソコにあるのは『豆腐』なんだもん。
概念としての『アート』というものを深く~自分なりに~考えながら、同時に、
「なんてニンゲンの身体は美しいのだろう/美しさのバランスから言えば巨乳は過剰だ」
などという崇高な想いに浸れた104分間であった。