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金魚日和

最近の活動はインスタにアップしています

2010年最後の雪

2010年12月31日 | 植物・花

朝起きて外を見ると雪で白くなった庭を犬が駆け回っていた。
と思ったら、犬ではなくmy娘だった。  子供と古代進は雪が好きだ。


大晦日の今日、今期初にして今年最後の雪が降った。
とはいえ昼頃には止み、混乱することなく年越しの準備を終えた為、
あとはヒロミ郷のメドレーを鑑賞しつつスルメなどを食べていたら本年も終わる予定だ。

みなさまよいおとしを&来年もよろしくお願いいたします。


ゴリンマント

2010年12月30日 | 生活

今時のプリンターは安くてキレイで印刷も速い♪
…浦島太郎るのもほどほどにしておかなければ。


人さまの個人情報に関わることなので詳しくは書けないのだが、
年賀状の宛名を入力している際、“ゴリンマント”という名のマンションにお住まいの方を発見した。

不審に思いつつも本人手書きの住所である以上、間違えて書いたとは考えにくい。
ギャラン・ドゥ』に意味が無かったように、意味の無い単語をマンション名にするオーナーがいないとも限らない。
不必要に葛藤する雑念を追い払い、粛々と印刷し投函した。

で、少し経ってから思ったのだが、あれ、“ブリリアント”かもしれない。。


無事届きますように(-人-)


年の瀬プリンター、枯れる

2010年12月30日 | 生活

自宅のプリンターを使う機会なんぞは年の瀬に集中しているわけで、ほぼ年賀状出力専用機と化している。

冬休みに入った昨日、my娘がご学友などに送る『子供向けバージョン』、
myファミリーが嫌がらせに配布する『家族向けバージョン』、計2種類の年賀状をデザインし一気にプリントした。

…ってな内容でブログるつもりでいたのだが、予定は狂う為にある。
プ リ ン タ ー が 壊 れ た 。


ハガキサイズ:148mm×100mmの長辺側120mmあたりに、
本体を調整しようがデータの設定を変えようがナニしても強烈なレインボーが出現するようになった。
どんなドリーマーなプリンターか。

10年近く使った年賀状出力専用機だった為、買換えに躊躇はないのだが、
年の瀬に家電屋に走るのは経済に取り込まれている人のような気がしてこっ恥ずかしい。


ギャラン・ドゥ

2010年12月29日 | 著名人・TV・映画

少々お下劣な話しになるのだが、
入浴中、『ギャラン・ドゥ』に関して疑問が沸き起こった。

「そもそも『ギャラン・ドゥ』とは何語でどんな意味の単語なのか」
「なぜアノアタリの毛のこと指して『ギャラン・ドゥ』と呼ぶのか」
「いったいいつ頃からそう呼ぶようになったのか」
「ヒデキ西城はどの程度関与しているのか」等々。

関係無いが、『等々力』と書いて「とどろき」と読むのは無理が無いか?


で、検索して驚いた。 関与もなにもヒデキ西城そのものでは無いか。
あまりにもセンセーショナルな内容だった為、ちょっと紹介してみたい(wikipediaより/以下水色部が引用文)

“1.もんたよしのり作詞作曲による西城秀樹の44枚目のシングル”
“2.へその周りに生えている体毛、あるいはそれが濃くパンツの中までつながっている状態”

もぉこの時点で大半の謎に答えてが出てしまっているわけだが、次が衝撃的な出会い(=ギャラン・ドゥ)だ。

“もんたによると、演奏時に発声したスキャットをそのまま歌のタイトルとして採用したもので特に意味はない”

!!!まじっすか、もんたさんっ!!メチャメチャ意味あり気なんですけどっ!
勝手に「16世紀に活躍した立派なもみ上げを有した英国紳士の名前に由来」とかを想像していたんですがっ。。
次、体毛を指す用語としての考察。

“西城秀樹が水着姿になった際の腹部に生えている体毛がパンツの中にまで続いている状態であったことに由来する”

(*´ρ`*)

“このような趣旨で使い始めたのは、オールナイトニッポンで松任谷由実が

(゜∇゜ ;)エッ!?

「腹毛」と言うのが恥ずかしかったために、代わりに「ギャランドゥ」と言ったのが始まりである”

・・・・・・さすがミレニアムの女王。。


そんなわけで、今日からお正月休みである。


世界のネイチャーフォトグラフィー2011

2010年12月28日 | 本・作家

ドヤ顔。

先日、いつものように書店内をフラフラしていると、
世界のネイチャーフォトグラフィー2011』と題された写真誌が目にとまった。

写真を撮ることが筆頭の趣味になった今でさえ、正直、“写真”そのものへの関心は薄い。
長く絵画を志し今でもデザイン業界の末端にいる所為か“写真を撮る”という意識よりも、
カメラを使ってデッサンをし、データを弄ることでタブロー(は大袈裟過だが)にする、という感覚が強いのだ。
(なので、正確にはデジタルカメラが好きなのであって、フイルムカメラを持ち歩こうなどとは思わない。)
仕事で使う“第三者が撮った写真”をチョイスする時は別にして、
自分が撮る/撮ったものには“写真的な良さ”を求めているわけではないのだな、うん。

そんな理由もあり、人様がお撮りになった『写真』を積極的に見ることはあまりないのだが、
この写真誌は手に取って数ページめくった後すぐレジに並んだ。 この手の本としてはリーズナブルだし。
で、自宅でゆっくりと鑑賞したのだが、凄いなぁ『写真』って(笑)


絵画と写真の違いに、あ、これはあくまで持論ですが、に、“輪郭線の捉え方”があるように思われます。
絵画の下地が無い人に絵を描かせると、最初に輪郭線を描き、その線の中と外とを塗り分けるように描き進めます。
様々な表現方法を通過した後に“輪郭線で塗り分ける”という技巧に落ち着くのは構わないと思うのですが、
学生レベルではこの『輪郭線』に対する意識を捨て去ることを徹底して教え込まれます:
「物には境界線があるだけだ/輪郭線のような“どこにも存在しない線”を描くな」、と。

視点から消えた面の端が境界線として存在するような描き方を模索することからスタートするんですね、現代の絵画の基礎は。
よって、自分なぞは『境界線≒輪郭線』は非常にファジーなものとしてしか認識していないんです。


と、すっかり文体が変わってしまったわけだが、上記したような理由により、
“写真におけるピントの正確性=境界線の確保”ってあまり重要視していなかったのだ、正直なところ。

それがっ!、まっとうな『写真』を見て目からウロコがボロボロと。
いやぁ、写真におけるピントの正確性って、作品のクオリティを決定付けるしメッセージの伝播をも左右するのな。
そんな写真を趣味としている人なら誰でも知っているようなことを今更ながらに実感したのだ、この写真誌で。

斯様な感動があったわけで、猫さまを撮る為に公園をさまよった週末、
正確なピント合わせ&ブラさずに撮ることは難しい。