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川柳・ボートっていいね!北海道散歩

川柳・政治・時事・エッセイ

細野豪志氏のまともな御意見!!

2022年09月24日 | 川柳

安倍元総理の銃撃犯をモデルとする映画を報じた朝日新聞。

 
選挙戦の演説中に政治家を暗殺する行為は言論封殺そのもの(もちろん屈することは絶対にないが)。
 
暴力がメディアを含めた言論空間に及ぶことを強く危惧する。
 
この時期に元テロリストが製作した映画を告知するマスメディアの見識を疑う。
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伊藤博文公も豪商達も・・・夢のあと(海陽亭)

2022年09月24日 | 川柳

小樽のひとよ!伊藤博文公も豪商達も・・・夢のあと(海陽亭)

2010年02月20日 | 川柳

            

「せっかくお越し下さいましたのに・・・あいにく今日は休館日でして、・・・でも、見学だけでもよろしければどうぞ!・・・。」海陽亭女将

「すみません・・・せっかくのお休みのところを・・・。」私

           ・・・・・もう25年も前のコトになります。

小樽の住吉町という小高い丘の中腹に、明治/大正時代に小樽経済の栄華を極めた頃の名残りともいえる、高級料亭がここ『海陽亭』という名で今もひっそり佇んでおります。

・・・何やら、日本の歴史に残る政治家や豪商をおもてなしされた、いろいろな逸話がある高級料亭でございます。

 私がまだ小樽に勤めていた頃、本州からいらした大企業のお偉い様方が会社にお起しになった時はこの『海陽亭』を良くご利用されていたようです。

ある意味、昔はここに接待されると言う事は、『あなた様を最高のお客様だと認めています。』という、暗黙のステータスでもあったのです。

 「明治時代は伊藤博文公もいらして、こちらで用意した女の子がお気に召さなかったようで・・・お膳をひっくり返されるようなこともあったそうです・・・それから・・・この漆器や茶碗は石原裕次郎さんが小さい時お父様に良く連れて来られたりしていた時のものです。それから奥様と良くお忍びでいらしたものですよ。。。」女将

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%8D%9A%E6%96%87

        一度は訪ねてみたかったここ『海陽亭』

     

 実は、私の祖祖祖父母(4代目前)も、函館で料亭を営んでいたという。(桝やという屋号)

そんな、遺伝子が騒ぐのか・・・親友と屈託なく女性が訪問しづらいところにもすーと入り込んでしまう・・・アチキではありんす!

  今は、一般のお客様にも、お安い価格で食事ができるようになりました。

  (ここは、なかなかの・・・穴場です。昔は敷居がとても高かったものです。)

 それから、小樽の小豆が世界の相場を動かした事もあったそうです。

       (世界相場を動かした小樽・・・すごい・・・です。。。)

明治33年に日本万国博があった名残りが、あの大理石で作られた重厚なウォール街なのだそうです。札幌にあった石を小樽まで運んで作られたそうです。

経済の歴史は・・・札幌より、小樽の街が商売の生みの親でありました。

その象徴とも言える、遊興の名残りが、このような料亭にも色濃く反映されております。(歴史は裏面史が面白いのです。)

草葉の陰でゆっくりお休みの、小樽(北海道)を代表する商人達も皆、口をそろえてこのように言っているのではないでしょうか。。。

  『札幌の大都市を作るのに、僕達は一役買ったものですよ!

小樽本店から札幌本店に変化していったところから・・・小樽の斜陽は始まってしまったのですがね。。。』

       夏草やつわものどもが夢のあと    芭蕉

       枯れ草やつわものどもが宴あと    ワチキ

 

         (伊藤博文公のヤシャ孫様です。)

                   ↓

         http://www.m-takeaki.jp/gallery/

 

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三橋美智也・「古城」売り上げ300万枚!!

2022年09月24日 | 川柳

 明日、三橋美智也メモリアルコンサート(没後27周忌)で、出身地の北海道北斗市の「カナデール」へ友人に誘われ行く予定。

五木ひろし・水前寺清子・大津美子他ゆかりのある歌手の方々が出演する。

 個人的にはこの「古城」は、我が家で初めてプレイヤーを買ったときに亡き父が夕食を取りながらいつも流していた。

それが終わると母がプラターズやナッキンコールの曲をかけると、父も負けじと「黄色いさくらんぼ」などをかけながら子供たちは黙々と親たちそっちのけで箸を進めていた。(いつものことなので)

 でも、父はこの「古城」の歌のすばらしい意味をちゃんと教えてくれていたので私自身も子供心に「人生訓」として、植えつけられていたようだ。

 いつも何かにつけ、結果から物事を考える習性はこの歌に帰依するのかもしれない。

また、戦後亡き父母たちの血肉になっている敗戦の思いだったのかもしれない。(プーチンも聞いて欲しかった!!)

 自分が今まで地道にやって来れたのは父の教えのおかげ。

そして、父が大好きだった三橋美智也の生誕地に父母も転勤から50年暮らしてきたのも何かの導きか縁だったのかもしれない。

 人間はいつか死ぬが・・歌は生きている!!

そして、在りし日の父母の姿も、元気な姿もいつも眼裏で生きている!!

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