デジカメ写真のアルバム

アウトドア活動が好きで、高尾山に咲く花から近代的なお台場の街並みまで、素敵なものは何でも写真にしています。

貨幣博物館-日本銀行

2010-09-27 11:30:42 | テーマパーク・行事・場所
貨幣博物館-日本銀行


日本橋の一角(東京駅と日本橋三越の間)に、日本銀行があります。歴史的にも価値がある古めかしい建物がそれです。手狭になったときに、新しいビルを左側に建てています。道を挟んで、右側に貨幣博物館があります。 *いづれも、とても豪華なビルです。

展示場には、和銅開称などの古銭・天正大判・豆板銀など、歴史的に素晴らしい価値のあるものが並べられています。

一度見ておく価値はあります。学校で学んだことが思い出されます。


**展示室は撮影禁止になっているので、写真によるご紹介は出来ません。



次に、知っておくと役に立つ、紹介文の一部をご紹介します。

1)江戸幕府は貨幣発行の集中化と貨幣様式の統一のため、金、銀、銭(銅)の3種類の貨幣からなる三貨制度を作りました。金は小判1枚(1両)を基準に4進法の単位で表す計数貨幣、 銀は重さで価値を表す秤量貨幣、銭は1枚が1問の計数貨幣で、相互の交換は日々の時価相場で決まるものでした。 庶民は主に銭を使用していましたが、高額なものは、関東では金何両何分と金貨建てで、関西では主に銀何貫何匁との銀貨建てで表示されるのが普通でした。関東には金の山地が多かった事、関西では銀の産地が多く、中国や南蛮貿易では銀貨の使用の習慣があったためです。銀は重さで価値が決まるため、売買に天秤が不可欠でした。 また関東と関西の間の商売のため、両替商が活躍しました。

2)大判は貨幣として流通していましたが、本来、褒美用に作られたもので、流通を目的としていないため、表面には墨で量や発行者の銘が書かれています。一方小判は流通の目的で作られていたため、打刻で銘が書かれています。大判は全部で6種類あり、貨幣博物館では全部見る事ができます。

3)江戸時代、小判や銀貨を一定量パッケージしたものが商取引に使われるようになりました。包みは封印され中身を確認する事無くしようされていました。この様なものが使われた理由の1つは真贋鑑定が簡単になることです。このため包みは幕府の責任者や信用の高い両替商が作成しました。理由の2つ目は貨幣を削るなど悪貨を排除できることです。第3は重さでやり取りする銀貨で、重さを計る手間を省ける事です。この封印は厳重に扱われ、偽の包みを見抜けなかった両替商は咎めを受け、施封者が包みの中身を間違えた場合は弁償を求められました。ただし、流通過程で封を切られると無効になり、中身に問題があったと訴えても無効とされたようです。貨幣博物館に封をしたままの包みが保管されています。封をされている事に価値があるため、中身の確認はできないそうです。

4)小判50枚を包んだPackageが、きちんと20個入る箱が、正式な千両箱です。

5)金属貨幣は便利ではありますが重いのが欠点でした。このため紙幣が発行されました。世界最初の紙幣は10世紀の中国だそうです。ヨーロッパでは17世紀に旅行者が盗難を避けるため、金匠に貨幣を預け、その預り証を携帯し、目的地で指定された金匠に提示して貨幣と交換するというのが始まりました。日本では伊勢山田地方で1600年ごろに、信用の高い商人が秤量銀貨のつり銭代わりに発行した山田羽書、銀貨の預り証が紙幣の発祥と言われています。つり銭代わりなので元々は羽書でなく端書だったらしいです。やがて各地で幕府貨幣との交換を原則とした私札や藩札が発行されるようになりました。なお、江戸時代は三貨制度を取っていたため、札には必ず「金」か「銀」か「銭」かが明記されています。




日銀の旧ビルです。上から見るとロの字になっています。左側に見えるのは、新ビルです。





旧ビルの右側に、道を挟んで、貨幣博物館があります。 *ビルの一・二階にあります。







説明資料です。




石の貨幣です。




この入り口から先が、展示室です。  *撮影禁止になっています。




天正大判です。




和銅開称です。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿