現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

日章旗[返還運動の「OBON2015」

2014-08-15 20:30:45 | 太平洋戦争

戦後69年。終戦の日。戦死された方々の遺品、「寄せ書き日の丸」を

遺族の元に返還しようという団体があることを知りました。その名も

「OBON2015」。 来年 2015年のお盆(OBON)までに、返還しよう

という取り組み。 

http://obon2015.com/

https://www.facebook.com/pages/OBON-2015/420993331287264

アメリカ兵などが、戦死した日本兵の遺体から、戦利品として持ち去った

「日の丸」。その当事者も亡くなり、孫 子の代になって、「遺族の元に

返還したい」という人も現れ、また始末に困って、オークションなどに

多く出されているとか。

サイトでは、遺族を探し出して、返還できた事例が 動画で いくつか

紹介されています。一人娘の方が、もう70歳を越え、「顔も知らない

父親が帰ってきた」と。 私も涙が流れます。

私の知人にも、「結婚3ヶ月で 夫が召集され、フィリピンで戦死。

種(女の子)だけを残していった」という方がおられました。昨年、

最高齢の遺族代表として、千鳥が淵での「戦没者慰霊蔡」に招かれ、

その後まもなく亡くなられました。一人娘のYさんも もう70歳。

母子の戦後は 大変な苦労をされたと伺っています。

遺族も少なくなり、各地の「遺族会」も解散するところが増えてきて

いるとか。戦後も遠くなりにけり。

 

私の家にも、父の「寄せ書き日章旗」が3枚あります。「柴五郎

陸軍大将」と「鈴木貫太郎海軍大将(後、首相)」の揮毫があり、

しかるべき所で展示してもらいたいと思っているのですが、

そんな遺品が、ゴマンとあるそうで、展示スペースは無いようです。

「OBON2015」にアップされている「日の丸」にも「山下大将」と

いうのがありました。「山下奉文」でしょうか。


FaceBookが 機能しない

2014-08-14 22:47:40 | 虚無僧日記

電車に乗っても、歩行中も、自転車に乗っていても 皆

スマホをいじくっている。ツイッターや FaceBook を

見ているらしい。

今や、名刺が全く不要になった。初めて知り合った人とは

姓名を聞くだけで、後は帰宅してから FaceBookで検索し、

「友達」交流すればいい。

知友人の毎日の行動が、FaceBook で見ることができる。

たとえば、私の長女は、今 タイに行っているが、その様子が

毎日 FaceBookで見て取れる。

また、昨年、ロシアからの招聘は、FaceBook に入ってきた。

その後の連絡、打ち合わせも すべてFaceBookで済ませた。

 

世界では もう 何億人が活用しているという FaceBook だが、

日本では、まだまだ ビジネスには 活かされていないという。

友達同士、日常の他愛ない やりとりに 終始している。

 

さて、その「友達リクエスト」。本来は面識のある知人に限定

のはずだが、「友達の友達は友達」で、面識の無い人からも

次々にリクエストが来る。最近は中国人からのが圧倒的に多い。

言葉は通じないし、「承認」しないでいる。

その一方、片っ端から「リクエスト」したら、 「私は、あなたの

ことを知りません。問題ユーザーとして 通報します」 という

おっかないメールが返ってきたりする。

今日は「あなたの友人の中に“危険な人物”がいますので、

友達承認を取り消します」ときた。私の「友達」は350人ほどもいる。

その全員をチェックしたとは驚き。「“危険な人物”って誰?」と

問い合わせたら、私のマネージャーだった。何を根拠に危険と

判断したのだろうか。

 

コメントを入れると、すぐさま数秒で返事が返ってくる。皆

四六時中、スマホとにらめっこしているのだろうか。

友達が 3,000人、5,000人もいる人。管理が大変だろうと

思う。私など 350人でも 四苦八苦。しかし仕事につながるような

話は、一向にない。FaceBook に しばられて、時間がどんどん

過ぎていく。 困ったもんだ。

 


お盆休みはブログの整理

2014-08-14 09:23:38 | 虚無僧日記

「虚無僧日記」を読んでくださっている方には、このところ

「太平洋戦争」関連か「先祖」の記事ばかりでスミマセン。

毎年、お盆休みは遠出するのですが、今年は、自宅に

こもって ブログの整理をすることにしました。

 私の「虚無僧の旅」は先祖探しの旅でもあります。今まで、

各地を周り、ブログに単発的に書いてきたものを、遠い先祖の

ことから順に並べてみます。

「牧原家」に関心の無い方は 「カテゴリー」で他を 選んで

見てくだい。


多治見という名

2014-08-14 09:20:15 | わが家のこと

私の先祖に「多治見」という名の人がいた。
初代は、紀州徳川家から会津保科家に移った。
そして、会津で生まれた子に「多治見」と
名づけた。なぜ「多治見」なのか? ずっと
考えている。
江戸時代の初期に、多治見の名は、会津まで
知られていたのだろうか。多治見の図書館で
多治見の歴史を調べたが、多治見の名が知られ
るようになるのは、江戸時代の後半、美濃焼きの
集積地となってからだ。

ひとつの手がかりは、家老の横山家が美濃の
加納藩から会津に移籍していることだ。この
横山家と姻戚関係を結ぶ。その時、名づけ親
となったのでは? というのが推測だ。

「尺八と一休語りの虚無僧一路」のホームページも見てください。

一休と虚無僧」で別にブログを開いています。

日記@BlogRanking


先祖の名に多治見

2014-08-14 09:19:54 | わが家のこと

私の先祖に「多治見」という名の人がいる。多治見といえば、
岐阜県の多治見市だ。人名では珍しい。なぜ多治見なのだろう。
多治見の地名は江戸時代の初めに遠く会津まで知られていたの
だろうか。そんな疑問もあって、昨夏多治見を訪れた。
虚無僧の格好で。とにかく暑かった。
多治見が40度を超え、最高気温を更新した日だった。

日曜日の朝9時に着いたので、商店街もまだ閉まっている。
ぶらぶら歩いて、高台の方へ上って行った。一戸建ての邸宅が並ぶ
新興住宅地である。昼まで流して、反応全くなし。コンクリートの
照り返しで暑い。
木陰を求めて坂道を下りた。旧市街地は古いしもた屋が残っている。
戸も開け放たれたまま。
「おや、めずらしいね」「暑いのにご苦労さま」と、言葉をかけながら、
お布施も気持ちよく入れてくれる。
新興住宅街より、やはり下町が虚無僧には似合っている。

しかし、とにかく暑かった。休み休み町中に向かって歩いていると、
図書館があった。地図を見なくても、自然と目的地へ着くのだ。
虚無僧姿で入っていっても、誰も驚かない。そのまま図書館へ入って、
涼みがてら多治見の歴史を調べてみた。
多治見が美濃焼きの集積地となって、名が知れ渡るようになるのは、
幕末のようだ。江戸時代初期にはまだそんなに有名ではなかった。
となると偶然か??。

系図を見てあれこれ推測してみた。「牧原多治見」は病弱だったので、廃嫡
され、家老の横山家から養子を迎えている。この横山家は岐阜の
加納藩から会津に来ている。この横山氏が牧原家の実子の元服に際して
名づけ親となったのではないか。病弱だったので、不死身ならぬ多治見
とした。推測である。
皮肉にも横山家からの養子は早世して、廃嫡された多治見は57歳まで
生きた。当時としては天命を全うしたことになる。


はるかな尾瀬

2014-08-14 08:17:10 | わが家のこと

「夏が来~れば 思い出す はるかな尾瀬 遠い空」

江間章子作詞、中田喜直作曲の『夏の思い出』は、1949年
(昭和24年)NHK『ラジオ歌謡』で 石井好子が歌って
尾瀬を一躍 有名にした。尾瀬は、福島県の会津若松側から
はいると、只見川をずっとずっと遡って、桧枝岐のさらに
奥地だ。桧枝岐の村民のほとんどが「星」姓である。

中田喜直は尾瀬に行ったことはなく、初めて尾瀬に行った
のは40年後のことだったとか。かく云う私も、福島県人で
あれば、一度は行きたいと思いながら一度も行っていない。
「はるかな尾瀬 遠い空」だ。

実は、私の父は、東京電力を退職すると、東電の子会社の
「尾瀬林業」に勤めていた。東電は 尾瀬の70%、群馬県側の
100%の地域を所有している。東電が ここに ダムと水力発電所の
建設を計画したのは 大正11年(1922)のこと。その以前から
住み着いていた平野長蔵氏がこれに反対し、尾瀬は 開発か
自然保護か、半世紀以上も 抗争の舞台となった。

私の妻の叔母が「蜂谷緑」のペンネームで文筆活動を行っていて、
『ミズバショウの花いつまでも−尾瀬の自然を守った平野長英』 で
毎日文学賞を受賞した。「東電」と闘った長蔵小屋の2代目
「平野長英」の活動を紹介した本だった。

その「受賞祝賀パーティ」に 私も出席し、尺八で『夏の思い出』を
演奏した。私としては、ちょっと複雑な思いだった。

現在では、東電は、ダム建設を断念し、「尾瀬林業」は5つの
山小屋の経営と、尾瀬の自然環境保護に取り組んでいる。
したがって、「尾瀬林業」は、収益は ほとんどない「自然環境
保全」の事業会社だ。それを東電は今、売却したいと。

ひと昔前は、猫も杓子も押しかけた観光地だったが、今は
どうなのだろう。車では行かれないから、とても「安近短」とは
云えない。「遠く、はるかな尾瀬」か。はたして、事業を
受け継ぐ人はいるか?。


ローマ法王が韓国訪問!?

2014-08-14 08:07:22 | 社会問題

ローマ法王あす来韓 18日まで列福式やミサなど(聯合ニュース) - goo ニュース

 フランシスコ・ローマ法王が 14日から18日まで韓国を訪問。

アジアの訪問は“初”とか。 韓国にはカソリック信徒が多いそうな。

「統一教会」との連携はあるのだろうか。

 

8/15 は 日本では「終戦記念日」でが、韓国では「独立解放の日」。

元慰安婦も 法王のミサに出席する。韓国政府は 国際社会への

宣伝強化で日本への圧力を強めており、法王の訪韓は、まさに

好事例。

だが、つい先日、朝日新聞は、「軍による強制連行を誤認」と認めた

ばかり。また韓国も 政府主導で、アメリカ兵のために「慰安所」を

設置していたことが、内部から明らかにされた。微妙な問題に

バチカンはどう対処するのか 注目!

 


「マック」 まっくらやみ じゃござんせんか

2014-08-14 08:07:03 | 社会問題

一昨年だったか、日本マクドナルドの「原田泳幸」社長の講演を聴いた。

数々のアイデアと戦略で、マクドナルドの業績を挙げた話には 説得力が

あり、感心したものだった。それが、その後、原田氏の戦略が裏目に出て、

業績不振が続く。サラ・カサノバ女史に社長交代したものの、迷走が続き、

中国の腐チキン問題で、さらなるダメージ。

私も、以前はよく行ったものだが、メニューが判りづらい、案外値段が高くつく。

セットで 7~800円なら、もっと安い店はいくらでもある。 800円分の満足感は

得られない。

店員のモラルも低下した。昨年だったか、セットと単品の組み合わせでは

値段がいくら違うのかを聞いたら、ケバイ、香水プンプンの店員が、私の目を見ず、

後ろに掲示されているメニューボードを指さすだけで、「あれを見れば判るでしょ」 と

態度。 それにキレて以来、二度と行かなくなった。

私を 怒らした店や企業は 皆つぶれている。

 

原田体制で 現場のオペレーションはズタズタになり、度重なる期間限定メニューの

登場などによって、店員は混乱し、その結果、店員からスマイルが消えたという。

企業の 成功と 凋落の原因を探るに 実に良い例だ。

 


武田家を継いだ家康の五男「新吉」

2014-08-14 00:19:08 | わが家のこと

家康の五男「新吉」は、21歳で早世したこともあり、目立たない

存在だが、実は「武田家」の名跡を継ぎ、下総小金3万石→

佐倉10万石→常陸水戸25万石。つまり、徳川御三家の一、

水戸は、当初は五男「新吉」に与えられ、「新吉」が21歳で

病死したため、10男の「頼宣」に、そのあとで、「頼宣」を

紀州に移して、11男の「頼房」に与えられたのである。

「新吉」の母は、武田信玄の甥「穴山梅雪」の養女であり、

家康は 天正18年(1590) 小田原北条氏を滅ぼして

関東に入国した際、「五男・萬千代」に「信玄」の「信」の字を

とって「武田信吉」と名乗らせ、武田の名跡を継がせた。

武田勝頼を滅ぼした際、武田の親族でありながら家康に

寝返った「穴山梅雪」の功に報いるためでもあった。

また、関が原の後の1602年、常陸の佐竹氏を秋田に

追放した後、「武田信吉」を常陸に遣わして、佐竹と同祖

(佐竹も武田も始祖は新羅三郎義光)であることをもって、

佐竹の残党を慰撫しようとした狙いもあったか。

 

だが、「新吉」は翌年の1603年、21歳で病死してしまう。

その後、水戸の太守となったのは10男の「頼宣」だが、

まだ2歳。そこで実際には、常陸の支配は、水野重仲と

三浦為春、芦沢信重の三人に任される。

水野重仲と三浦為春の二人は、「頼宣」の「傳相役」

(でんそう、もりやく、でん、ふ)、あるいは「御附家老」

(おっつけ、つけがろう)と呼ばれる。このニ家は、元来は

家康の譜代の大名格であり、家康の子の後見人として

派遣されたのであるから、「家老」となることに不服で

あった。牧原の先祖としても、仕えていた殿様が「家老」に

なったのでは、「家老」の「家来」で「陪臣」として、格下げ

になってしまう。そんなこともあって、わが子の将来のために

16歳で 会津藩に移籍させたのであろう。

 

なお、穴山梅雪の妻「見性院」は、秀忠の隠し子「正之」を

匿い、「お江」の追求をかわして、保科正光に託した人である。

 



今年はやはり [冷夏」?

2014-08-13 13:22:23 | 虚無僧日記

電気代、7月は 5,193円、 8月(12日まで) 6,370円。

去年までは、毎月 17,000円も払っていたのだから、2ヶ月で

2万円も 浮いたことになる。

去年まではクーラーの無い生活なんて考えられなかった。それが、

今年は 冷房が 全く要らない。30℃以上に 体が慣れたのか、

26℃では “寒い” と感じる。 夜中など、窓から はいる風が

寒くて 何度も目が覚める。やはり“冷夏”なのだろうか。

風呂も、以前は 湯船一杯にして 温泉のように 溢れるのを楽しんでいた。

それが今年は、湯船の 1/4、 20cmほどにして、手桶で肩から掛ける

ようにした。3日間は、湯を少し注ぐ だけで使える。3日目には、洗濯

水として使う。 こんな節約が、今までなんで できなかったのだろう。

それでも 貯金は ついにゼロになった。 8/15 は 終戦記念日。 いや

それより 「年金」の振込み日。あと2日、戦争中の苦労を思い、

飲まず食わず、クーラー無しで がんばるべい。