現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

お盆は自宅で

2014-08-13 07:57:51 | 虚無僧日記

毎年、お盆休みは遠出するのですが、今年は、貯金も尽き、

「敬老パス」も紛失して、どこも行かれない。これは自宅に

こもって書き物をせよとの神仏の思し召し。

 

「虚無僧日記」を読んでくださっている方には、このところ

「太平洋戦争」関連の記事ばかりでスミマセン。

 

私の部屋は 今 ダンボール箱で 埋ってます。

「牧原家のルーツ」、「父の戦記」、そして「虚無僧」「一休」関連

の資料が、ダンボールに50箱もあり、今年中に全部 整理して、

ブログに書き残し、 古本屋に売るなり、処分してしまおうと

思っています。

この盆休みは、その作業に集中します。

 


鈴木貫太郎閣下

2014-08-12 08:48:39 | わが家のこと

「寺内貫太郎一家』ではない「鈴木貫太郎閣下」。

太平洋戦争の終結のために、昭和天皇の強いご下命で
総理大臣となった。その時78歳。

『坂の上の雲』にも登場していた。1867(慶応3)年の

生まれだから、27歳で日清戦争に従軍。日露戦争の時は

38歳で 第4駆逐隊司令として参加し、ロシアの戦艦を

3艦も撃沈。

1929(昭和4)年、62歳、予備役となり、同時に
侍従長に就任。昭和天皇の信任を得る。

1936(昭和11)年の2.26事件で襲撃され、
重傷を負う。その後、余生を送っていた貫太郎に
1945(昭和20)年4月5日、天皇より、組閣の
大命が下される。戦争終結の内命を帯びていたのだ。

だが、陸軍は本土決戦を叫び、海軍の強硬派もそれに
ならい閣内は本土決戦派と終戦派とのつばぜり合いで
真っ二つの様相を呈していた。

鈴木貫太郎は 首相就任挨拶で「私は死に花を咲かす覚悟。
諸君は 私の死屍を乗り越えて 一層奮起し、起って欲しい」と、
勇ましい発言をした。それは「終戦内閣」をかわす貫太郎の
腹芸であったか。

私の父は、昭和16年8月、福島県の会津若松連隊に
入隊したが、その時の「日の丸」に「海軍大将 鈴木
貫太郎」と「陸軍大将 柴五郎」二人の揮毫がある。

地方の一兵卒の入隊に、なぜ、海軍と陸軍の大将の
揮毫が得られたのか。謎である。「お宝鑑定団」に
でも出してみようか。


鈴木貫太郎記念館

2014-08-12 08:46:53 | わが家のこと

昨年の5/26  関宿の「鈴木貫太郎記念館」に行ってきました。
鈴木貫太郎」は、海軍大将で、終戦時の内閣総理大臣
です。
私の父の遺品の中に「海軍大将・鈴木貫太郎、陸軍大将・
柴五郎」の揮毫がある「日章旗」がありました。

父は、昭和16年8月に会津若松第65連隊に入隊したの
ですが、どのような経緯で「鈴木貫太郎」に揮毫いただいた
のかを調べていて、ネットで「鈴木貫太郎記念館」が
あることを知り、行ってみました。

中目黒から地下鉄日比谷線で北千住、そして東武線で
草加、越谷、春日部を経て「東武動物公園」まで
トコトコ1時間半。

昭和57年当時、春日部の手前の「千間台」に住み、
中目黒の千代田生命本社まで通っていましたので、
なつかしい思い出の線でした。当時は草加から北は
田んぼでしたが、30年の歳月が経ち、沿線は住宅で
埋め尽くされていました。30年前、毎朝 ものすごい
ラッシュで1時間半立ち通しでした。

さて、東武動物公園駅から バスで 20分「鈴木貫太郎
記念館」に到着。田んぼに囲まれた一画で、訪れる人も
まばらな所です。

大礼服や肖像画、終戦時の「玉音を録音したレコード」
なども展示されていました。昭和20年、21年の「日記」
はありましたが、昭和16年当時の日記はなく、受付の
方も「わからない」とのこと。

バスは1時間に1本しかないような所です。帰りは、
浅草に寄って、スカイツリーを見、さんざん歩いて、
“足を棒にして”夜9時 名古屋に帰着しました。


父の「日章旗」

2014-08-11 08:29:57 | わが家のこと

父の遺品の中に、「祝 出征 牧原五郎君」の幟旗と、
「武運長久」と寄書きがされた日章旗が4枚 あります。

父は、昭和16年3月に慶応を卒業し、東京電灯(現
東京電力)に入社し、12月に出身地の福島県会津若松の
「歩兵65連隊」に入営します。

東京を発つ時に壮行会を開いてもらったのでしょう。
1枚は慶応の「福沢研究会」の面々。もう1枚は「東京
電灯・浅草営業所」の社員が、氏名を寄書きしています。
みな実に達筆なのに驚きます。

さて もう1枚には「海軍大将 鈴木貫太郎」と
「陸軍大将 柴五郎」の名が揮毫されています。

「鈴木貫太郎」は、海軍大将ですが、昭和20年4月、
東条英機の後、天皇の推挙によって内閣総理大臣となり、
戦争終結に尽力した人です。

「柴五郎」の名は会津人なら誰でも知っています。
薩長の軍閥の中で、会津人として初めて陸軍大将にまで
上り詰めた郷土の英雄です。著書の『ある明治人の記録』
で知る人も多い。

さて、私の父の出征に際して、「海軍大将」「陸軍大将」が
揮毫しているのは、どういうわけか。一兵卒の全員に
印刷して配られたものでは無いだろう。

いったい、どういう経路で、誰が、両大臣に揮毫を頼んだ
のだろう。そして、その日章旗を父は戦地には持って
行かなかった。

なぜ? どなたか、この謎を解いてください。


「尺八と一休語りの虚無僧一路」のホームページも見てください。


鈴木貫太郎と柴五郎の揮毫

2014-08-11 08:29:10 | わが家のこと

昨年書いた記事の再掲です。

中日新聞 昨年の10/8 と15日に掲載された「高田明和」氏の寄稿。

『競争社会で気を楽に生きる』「上」に「鈴木貫太郎」のことが書かれていた。


「鈴木貫太郎」は、戦時下最後の総理大臣として、太平洋
戦争の“幕引き”を行った人物。

日露戦争に駆逐艦に乗って 敵艦3隻を轟沈。後「連合艦隊
司令長官」「海軍軍令部長」などを歴任し、海軍から宮中に
転じ、侍従長に就任。「枢密院顧問官」も兼任した。
「二・二六事件」で襲撃され、胸と頭に銃弾をあびるが、
奇跡的に一命を取り留めた。

昭和20年の4月、沖縄も陥落し、敗戦濃くなって「戦争の
幕引き」を天皇から請われて、総理大臣になった。時に
76歳。

彼の「座右銘」は「求めぬ者は富む」。「求めないと
いうことは、敗者の論理ではなく、心の幸せの論理で
ある」と。「ポツダム宣言」の無条件受諾が、戦後の
復興につながったのか。


はてさて、私の父が、昭和16年 出征の時の「日の丸」の
旗に「海軍大将 鈴木貫太郎」と揮毫されているのだ。
「陸軍大将 柴五郎」の署名もある。

一兵士の出征に「陸軍大将と海軍大将」2人の揮毫。
いったいどういう経緯で、揮毫を得たのだろうか。

小説のネタにしたいと考えている。


柴五郎陸軍大将

2014-08-11 08:20:27 | 太平洋戦争

父の日章旗に揮毫されていた「柴五郎陸軍大将」とは。

岩波新書『ある明治人の記録』で知る人ぞ知る、会津
人で、初めて陸軍大将にまで出世した人だ。

柴五郎は 1860年の生まれ。明治元年の戊辰戦争当時は
8歳だった。戊辰戦後、下北半島で悲惨な生活を経験するが、
明治6年、陸軍幼年学校に、明治10年、陸軍士官学校に進み、
明治12年、陸軍砲兵少尉に任官される。同期には『坂の上の
雲』の秋山好古がいた。

明治32年清国に派遣され、そこで『義和団』事件が起きる。

私が子供の頃『北京の55日』という映画があった。チャールトン.
ヘストン主演の“総天然色”の映像を記憶している。この映画は
アメリカとイギリスが大活躍して義和団を撃退したことになって
いた。その時は気がつかなかったが、伊丹十三が扮する日本の
軍人が「柴五郎」だった。映画では、二言しかセリフが無いが、
実際は、柴五郎指揮下の日本軍の活躍で、義和団を撃退
したのだ。この義和団事件の働きで、柴は海外各国から賞賛と
勲章を贈られる。

その後日露戦争にも従軍するが、軍人としての出世は遅く、
1919年(大正8年)になってようやく陸軍大将に進級し、
1923年(大正12年)には「予備役」となる。

私の父が出征した昭和16年当時は、もう退役軍人だった。
そして、1945年(昭和20年)の敗戦後、9月15日に自決を図る。
即死せず、その傷がもとで12月に亡くなった。85歳だった。

退役軍人だった柴五郎は、出征して行く会津の若者全員に、
「祈 武運長久 陸軍大将 柴五郎」と揮毫した日章旗を贈って
いたのだろうか。


「尺八と一休語りの虚無僧一路」のホームページも見てください。


「酒井勝軍」の戦争賛美

2014-08-11 06:06:57 | わが家のこと

戦争の悲惨さ、愚かさ、虚しさを考えれば、誰でも
「反戦平和主義者」でしょう。

私自身は「九条を守る会」の会員ですが、戦争映画は
大好き。戦争という極限の中で発揮される友情、
人間の本性剥き出しの愛憎に真実を見ます。

「酒井勝軍」もまたそうでした。彼は アメリカに渡って
キリスト教の伝道師となるのですが、そこで見た
宣教師たちの堕落した姿に失望します。

また日露戦争に従軍して、「反戦平和」から「戦争賛美」に

転じます。「戦場の中に美しい人間の真実を見た」と

言うのです。


酒井勝軍は 諸外国の「観戦武官」の接待役を
任されるのですが、エリート将校と憧れをもって
迎えた外国の将校たちは、わがままで、傲慢無礼。

日本は貧しく、物資も食料補給も無い中、彼等には
最大限の食事やシャンパン、寝所を用意している
にもかかわらず、「パンの焼き方が悪い、牛肉が
硬い」と 不平不満をぶつけてくることに、失望と
怒りさえ覚えます。

そして、日本軍人の崇高な精神に感動し、戦場に
美を見出していきます。それまで「親米、反戦平和
主義者」だった酒井は、日露戦争の従軍によって、
日本人優位の「国粋主義」に転じていくのです。

キリスト教は本来、「神と人、専制君主と臣民、
親と子の間のありよう」を説くものであり、アメリカの
「自由、平等、共和主義」は、キリスト教から
逸脱した堕落であり「滅びるべき思想」と考える
ようになります。

天皇家の紋章は「菊花」ではなく「太陽神の象徴」
である。「天孫降臨」のわが日本の天皇は 世界を
征服する王であるという考えに傾倒していくのです。


戦地で木暮実千代に?

2014-08-11 06:04:02 | 太平洋戦争

父の『従軍記』には

「昭和18年2月11日、紀元節の佳日。経理学校を卒業して、
見習仕官となり、原隊(会津若松65連隊)に帰ることとなった。
早朝の新京駅に人影は殆ど無かったのに、真白い毛皮のオー
バーを着たすばらしい美人が一人、ホームのかげにポツンと
立っている。よく見れば木暮実千代ではないか。夢かと思う。

数日前、彼女が従軍看護婦となって戦地に赴き、ロマンスを
作りながら活躍する映画を観たばかりだったので、特に感傷が
大きかった。

再び戦場に赴くに当たって、彼女に出逢ったこの運命は、
果たして吉か凶か?」と書かれている。

はてさて、木暮実千代が、昭和18年の2月に新京に居たのか?

Wikipediaで見れば、父が見た映画は、昭和17年制作の『愛国
の花』のようだ。
そして、木暮実千代は「1944年、20歳年上の和田日出吉と結婚。
マスコミの仕事に従事する夫の仕事の関係で夫妻とも満州に渡り、
辛酸な生活を味わった。帰国した翌年の1947年松竹に復帰し、
女優業を再開した」とある。

1944年は昭和19年。その前年の2月に、なぜ一人で、早朝の
新京駅に佇んでいたのか。映画を観たばかりの父の妄想だった
のだろうか。



南京“大”虐殺は無かった?

2014-08-10 12:04:44 | 太平洋戦争

南京大虐殺はあったのか、なかったのか」の論争

昭和12年、南京を攻略した連隊には「名古屋」も加わって
いた。その後の処理には「会津若松65連隊」も携わって
いた。

虐殺を見たという会津人の苦渋にみちた証言が

テレビでも放映されたが、ネットでは「嘘つき」「国賊」と

批難されている。気の毒。

南京に在る「南京大虐殺紀念館」では「30万人以上が
殺された」として「写真」などを展示しているが、当時の
南京市の人口が25万だったので、「30万人虐殺はありえない」
とか、展示されている写真の多くが、中国人による捏造で
あったり、証言のいくつかも 偽証とされている。

なにせ、「白髪三千丈」などと誇大妄想狂の国だ。
客観的には、3万~5万人か。一般人の大量殺戮では、
米軍による「東京大空襲」や「広島・長崎の原爆」の方が
はるかに多い。十万人規模だ。ソ連の侵攻でも数万人。
中国の共産革命、文化大革命では 数百万から一千万人が
殺されている。さらに毎年数千人が処刑されている国だ。

それを「大虐殺」と云わないのだから「3万人程度」
では「大虐殺」とはいえまい。

その意味で「“30万人もの大虐殺”は無かった」と
いうのは正しい。しかし「南京事件が無かった」とは
言えない。


軍資金は麻薬の密売で!?

2014-08-08 21:18:31 | 太平洋戦争
以前、NHKで、「日本軍は軍資金調達のために、麻薬の
密売をやり、それに甘粕大尉や東条英機も関わっていた」と
いう番組があった。その時は報じられなかったが、“尾張の
殿様”徳川義親の伝記に、「麻薬密売」について、はっきりと
書かれていた。
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藤田くんが上海に現われたのは、麻薬二十万ポンドを上海に
密輸したあと始末にきたのである。麻薬は陸軍省に頼まれて、
三井物産を通じ、イランから密輸した。二十万ポンドの麻薬は
莫大な量だが、陸軍はこれで戦争資金を調達するため、藤田君に
陸軍大臣の印鑑を押した注文書を発行した。

麻薬の密輸には多くの経費がいる。その費用を二百万円、今の
金で二十億円を藤田君に報酬として支払う契約であったが、
-(中略)- 軍は違約して報酬を払わないことにした。

藤田君は怒って、陸軍大臣の注文書を盾にして裁判所に訴訟を
起こした。-(中略)- 軍は、事が公然となるとまずいので、
藤田君に詫びたが、額は値切って二十万円しか支払わなかった。

この麻薬は、中国の秘密結社青幇の手に渡って売却され、中国
貨幣となって日本軍の手にはいった。今の金で、何十億円に
なるか何百億円になるか、額はわからない。

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日本は 1,000万人もの兵隊を大陸に送りこんだが、その食料は
現地調達。その資金は無く、資金源は不明だった。「麻薬」
が最も手っ取り早く“金”になったのだ。


これって清を滅ぼした「アヘン戦争」同様の「国家の犯罪」と
思うが、全然問題にもされていないのが“あ、変(へん)”。