現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

殺しても悔いの無い恨みとは

2013-08-22 12:54:18 | 社会問題
「たまりにたまった怒り」包丁で刺す…死亡(読売新聞) - goo ニュース


浜松で無職の60歳の男性が、「たまりにたまった怒りを
抑えきれず」近所の男性を刺殺した。暑さのせいか、
サスペンスドラマのせいか、短絡的な殺人事件が 続出
している。

刺し殺して、それで 怒りは収まったのだろうか。
そして刑務所暮らし。それでも後悔は無いのだろうか。
悔いが無いほどの恨みとは、どれほどのものだったのだ
ろうか。他人が聞けば、大したことでもあるまい。

“無職”というから、「犯罪を犯して、刑務所に入れば
一生“ただ飯”が食える」。まさか、そんな算段があっての
ことでもあるまい。後先考えず。後悔先に立たず。その場
限りの犯行か。そんな事件がこのところ多すぎる。

最近「怒りを殺す」という類の本がいろいろ出ている。
毎朝「朝起会」に通って「今日一日人の悪を言わず、
腹を立てず」とお誓いしていれば、そんな悩みは解決
できますぞ。

私も「朝起会」にめぐり会わなければ、今頃(刑務所の)
「塀の中」でした。

「今日の占い」は「頑固じじいになるより、温厚な爺さんに
なれば、人はついてくる」でした。本当にそうでござります。

尺八が悪いのか、吹く曲が悪いのか

2013-08-22 12:52:51 | 尺八・一節切
ホフマンが言うように、「尺八」という楽器をコップに例えれば、
「尺八」を流行らせるには、中身(演奏する曲)を何にするかだ。

かつて尺八は、一般的には、虚無僧の持つ道具か、地歌筝曲や
民謡の伴奏のための「道具」という認識だった。

私が尺八を始めた60年前は、「尺八は“楽器”なんて卑しいもの
ではない。外人には吹けない、日本人ならではのもの」と、
尺八の大家がのたまわっていた。テキストにもそう書いてあった。

今でも、虚無僧尺八の信奉者にとっては“修行のための法器”であり、
普化禅師の振る鐸の音を模す法具として“虚鐸(きょたく)”と
称されている。

私自身も、尺八でドレミファが吹けるなんて思いもよらなかった。
実際、昭和30年代までの尺八は音律など不正確だった。

それが、堀井小二朗師に「尺八は楽器だよ」と言われた時は
衝撃だった。そして昭和39年には、「日本音楽集団」や
「三本会」が結成され、尺八は“楽器”として華々しく登場する
こととなった。

あれから40年。「藤原道山」氏はじめ、尺八で あらゆる曲を
吹きこなす若手奏者はどんどん出てきている。

だが、それを聞いても、感動して、尺八を習おうとする人は、
昔ほどはいないのは なぜだろう。

尺八の音色、表現力はすばらしいと解っても、吹きこなすのは
“むずかしい”と倦厭されるのだろうか。リコーダーのように、
誰でも吹けば音が出るような吹き口も考案され、売られている。

それさえ 広まらないのは、尺八で吹かれる「曲」に魅力が
ないのか。馴染みがないからか。ならば、幼稚園、保育園、
小中学校で、尺八を聞く機会をもっと増やせばいい。

そうか、昔ほど、その子供たちが居ないのだ。ヤマハでも
ピアノを習う子供が減り、ピアノが売れずに困ってるようだ。
広まらないのは 尺八だけでない。洋楽器も同じ。



いつまでたっても最年少

2013-08-20 22:13:52 | 筝尺八演奏家
私の初舞台は15歳の時。山室信朗叔父について
千葉の三曲連盟の大会に出させてもらった。
当時でも尺八家といえば“年寄り”ばかりの中で、
ダントツ最年少。浮いた存在だった。

18歳の時、明暗本曲の「冨森虚山坊」師に
入門し、本曲の会などに出させていただいた。
当然 最年少。当時、私の叔父も先輩諸氏も
40~50代。60代となると、もう「ご老人」で
ご隠居さんだった。私も60になったら引退し、
舞台に立つのは やめようと思っていた。

あれから50年。私の師匠も、叔父も先輩諸氏も
皆鬼籍に入り、三曲界や虚無僧研究会では、私は
未だに最年少のぶるい。

そしてあと20年で「誰もいなくなる」のだ。

田中隆文氏の努力も空しく『邦楽ジャーナル』も
存続の危機に直面している。われわれ邦楽演奏家の
責任だ。




伝統とは?

2013-08-20 21:32:20 | 筝尺八演奏家
何十年も前のこと。国際交流基金のトップに就任した
○○氏の「就任挨拶」。

「日本文化というと“お茶やお華や能や琴の紹介”と
思っているが、そういう考えはもうやめるべきである。
それらは もう日本人の日常生活とは かけ離れている。
そうしたものばかり 外国に紹介すると、日本人は
みな着物を着、三味線や琴を弾き、尺八を吹いている
という誤解を受ける。現実の日本の姿を紹介すべきで
ある」

というような主旨だった。なるほど、たしかに、今や
日本の文化は「アニメ」であり「Jポップ」だ。

国際交流基金の助成団体を見ても、もはや劇団や
舞踊、音楽など“現代の日本文化”が中心で、
純邦楽(古典)などはない。

ちなみに、現代流行の「太鼓」や「津軽三味線」、
「よさこい踊り」などの民謡や踊りは、私が考える
“純邦楽”の範疇ではない。尺八は「藤原道山」や
「き乃はち」が助成金を受けているが、古典を
脱却した現代音楽ならばこそであろう。

「虚無僧のロシア公演」には、助成金は出ないのだ。


かつて、私が慶応高校の時、「古典芸能研究会」を
創ろうとして、「池田弥三郎」氏に顧問をお願いしに
いったら、「時代に受け入れられないものは廃れて
当然。廃れていくものを守ろうとする必要はない。
それは伝統ではなく保存だ」と断られた。

当時、“滅びる”と思われた歌舞伎や狂言は 今 “大人気”。
一方、能、浄瑠璃、文楽、琴、三味線、尺八は 絶滅の
危機に瀕している。

邦楽が廃れるのは、時代に受け入れられる努力をしない
邦楽界の責任。と判ってはいても、何をどうしたら
よいのか思案するばかり。




安物買いの銭失い

2013-08-20 11:12:18 | 私の尺八遍歴
ヤフオクで「絽(ろ)の紋付」5着 1,000円で落札。
夏場に紋付を着ることなどめったに無いのだが、
なんぞの時のためにと買い求めた。

今日、品物が到着。わくわくしながら開いてみたら、
ガ~ン、全部「女物」。男女の別まで考え及ばす。

古布のパッチワークなどに入用な方に差し上げます。

以前、「絽の僧衣」を入手したら、一日でボロボロに。
「講演」を終えて帰る頃には「破れ衣に破れ笠」の
一休さんになってしもうた。


人間機雷「伏龍」

2013-08-17 17:02:34 | 太平洋戦争
8/17中日新聞「中日春秋」より転載。


靖国神社にある「遊就館」の片隅に奇妙な像がある。
潜水服姿で頭には大きなかぶと。両手で長い棒を持ち、
身構えている。先端に付けられているのは機雷である

▼八月十五日の遊就館は見学者であふれていたが、
この像をあまり気に留める人はいない。それはそうだろう。
本土決戦を水際で食い止める「人間機雷」の存在は
ほとんど知られていないのだから

▼敗戦直前に横須賀や呉などで部隊が編成され、三千人
近くの若者が潜水訓練を受けた。上陸する米軍の舟艇を
水中で待ち構え、竹ざおの先の機雷を突き上げて自爆する。
「伏龍」と名付けられた水際特攻隊である

▼空を飛ぶ夢を失った予科練の少年兵たちは、ひたすら
死に向かう訓練に明け暮れた。本土決戦が回避されたために
実戦には至らなかったが、潜水具には構造的な欠陥があり、
多くの若者が訓練中の事故で命を失った

▼当時の戦争指導者の愚劣さが凝縮されている人間機雷を
考えたのは、参謀として真珠湾攻撃の作戦を立案した人物だ。
自らを犠牲にして祖国を守ろうとした少年たちの命を
ここまで軽く扱うのか。以前、取材した時に心底、怒りが
わいた

▼戦争が長引けば伏龍の要員になるはずだった人物に
「城山三郎」さんがいる。特攻を命じた側に常に厳しい
視線を向けた作家の原点だろう。「日本が戦争で得たのは
憲法だけだ」。城山さんの言葉が重く響く。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私も8/15 靖国神社の「遊就館」に行ってみましたが、
すごい人でとても入館できず。以前見学しましたが、
この「像」には気がつきませんでした。
「伏龍」については知っていました。

ネットで検索すると、中日新聞(東京新聞)記者の
「瀬口晴義」氏が『人間機雷「伏龍」特攻隊』(講談社)と
いう本を出していました。

横須賀だけで3名、全国では数十名の命が、うやむやに
葬りされた。軍部首脳の愚劣ここに極まれり。あの戦争を
「聖戦」と称える「遊就館」ですが、「伏龍」の像を
見た人は、どう思うのでしょうかね。

全く「人間機雷」は「人間嫌い」に通じる。

容保の養子「喜徳」と実子「容大」について

2013-08-17 16:51:30 | 会津藩のこと
会津藩主「松平容保」の養子「喜徳」と 実子「容大」について、
コメント欄に、詳しい情報をいただきましたので、掲載させて
いただきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

喜徳は「容大」が生まれたから、水戸に帰されたのでは
ありません。

明治6年 実父の旧水戸藩主「徳川斉昭」の22男である
松川藩知藩事「松平頼之」が死去したため、「喜徳」は
「容保」との養子縁組を解消し、実弟である「頼之」の
養子となって、その家督を相続したはずですが。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

いやぁ、徳川斉昭には驚きました。正室のほかに9人の側室があり、
男子22人、女子15人の計37人の子沢山。正室が生んだ
7男「慶喜」が 最期の将軍となります。そして第19男の「喜徳」が
弟(第22男)の養子になるとは・・・。

さらに、詳しく御教授いただきました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「容保」は14歳の時に(養父で会津藩主)「容敬」の5女{敏姫」と
結婚するが、「敏姫」は19歳で死去。

側室は田代孫兵衛の娘の「佐久」と、川村源兵衛の娘の「名賀」の
2人いた。 「佐久」は容保が京都守護職時代、身の周りの世話を
していた。その佐久との間に、長男の「容大」、次男の「健雄」、
5男の「英夫」、7男の「保男」を生む。

一方、「名賀」との間には、長女の美称、次女、3男、4男、
6男の「恒雄」が生まれる。


「容大」は 明治2年6月3日(新暦1869 年7月11日)生れですから、
「佐久」が身篭ったのは、旧暦で言うと7月25日前後。二本松が
陥落する前です。


「容保」は「敏姫」が亡くなった後、加賀「前田家」の14代藩主
「前田慶寧」の長女「禮姫」と婚約していました。
しかし、京都守護職、戊辰戦争と時局多難の折、婚儀は延期され、
明治4年(1871年)、婚約は解消されています。「禮姫」は「容保」と
逢うことは無く、後に「榊原政敬」に嫁いでいます。

「敏姫」の後「浦乃局(関山通子)」を正室に迎えたという話も
ありますが、公式記録にはありません。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

以上、コメントにいただいた文章は、もっと詳しいのですが、
略させていただきました。

ところで、小生「容保に隠し子が?」という記事を読んだ
記憶があるのですが・・・。その子は、桑名?にいて、
明治になって、小学校に上がり、「父は容保」と明かすと、
教師や仲間から「賊の子か」とさんざんいじめられた為、
以後 出自をひたすら隠してきた」という内容でした。
「葵の紋入りの短刀」を所持していたとのこと。
京都守護職在住の時の子でしょうかね。

8/15 靖国神社に参拝

2013-08-16 10:53:54 | 社会問題
昨日8/15、何十年ぶりに「靖国神社」に
行ってきました。九段下からものすごい人。
機動隊の警備も ものものしく、右翼の街宣車は
怒鳴りちらし、歩道橋の上も鈴なり、騒然とした
状況に驚きました。

50年前、安保闘争で左翼学生が暴れていた頃、
私は「右派」でしたから、靖国神社にはよく
お参りに行きました。その当時は参拝する人は
少なく、戦友会や軍人会の一団がひっそりと
お参りしていたものです。「靖国で会おう」と
誓い合って、国のために殉じた戦友に対し、
生き残った者としての負い目もあり、亡き英霊に
心から哀悼の祈りを捧げたものです。

あれから半世紀。戦争体験者はもう90歳を越え、
旧軍人の参拝は難しくなった。代わって、戦争を
知らない世代が、今、右と左に分かれて対決。

その様子は、こちらのサイトで見れます。
「くたばれ、反天連」

いやはや、靖国神社に参拝する若い世代が異常に
多いことにも驚き。また「靖国」に反対する団体も
あって、一触即発の危機。日本国内でこんな状況に
なっいるとは。知らないうちに、時代が、変な方向に
動いています。

8/14 受けた恩は 倍返し

2013-08-15 03:36:01 | 虚無僧日記
8/14 今朝早く、私の前に車が停まって、
道を訊かれた。韓国人の若い男女。分りにくい所
なので、私が先導して目的地まで案内してあげた。

さて、今日で虚無僧4日目。名古屋駅で吹くこと
また3時間。駅前は、若いピチピチのおねえさん
ばかり。“名古屋嬢”は ほんとに美しい。頭の先
から つま先までビシッと決めている。

みな裕福そうだが、彼女たちに お布施は まず
期待できない。“目の保養”と楽しませてもらって
いる。

「斉藤一人」さんも言っている。「仕事は“楽”
(らく)してはいけない。“楽”(たの)しんで
やること」と。

さて、若いおなごには 虚無僧に恵みを施そうという
仏性は無いのか。古代仏教では「女人は 欲が深く、
成仏できない」とされていた。

「斉藤一人」さん曰く。「ならば、天国は男ばかり?
そんなとこ地獄だ。行きたくない」と。

女性も「仏性」に目覚めさせる。それが今日の課題。

夕刻6時。8歳くらいの男の子を連れた母親が、
10円玉を子供の手に握らせて、「あそこに 入れて
きなさい」と。子供は素直に、私の方に寄ってきて、
「ゲ箱」にお金を入れてくれた。こうした心を子供に
教える。すばらしいことです。

以前にも、1歳くらいの言葉も解さない幼児が、母親から
言われた通りに10円玉を握り締めて、私の方にやってきて
いれてくれた。1歳の幼児でも、布施することが理解できる
のだ。これこそ、生まれた時から仏性があると思える瞬間。

もっとも、母親が「お金を入れてきなさい」と渡したのに、
そのお金を握り締めて、自分のものにしてしまった子供も
いた。「人にあげるなんてイヤ。僕が欲しい」と。
それも当然と思えるのだが、そんな知恵の廻る子は、
過去に一人だけ。


さて、8時を過ぎて、若い女性が二人、私に興味を示して
近づいてきた。しばらく尺八を聴いていて、布施してくれた。
やったー、ついに若い女性 ゲット! どうやら韓国人の
ようでした。

そして続いて東南アジア系の素敵な美人二人。私の尺八を
しばらくスマホの動画で撮影してから、1,000円札を入れて
くれた。

そしてまた、白人系のカーボーイハットを被ったイケメンの
男性。今日は、朝、韓国の女性に道案内してあげたからで
しょうか、外国人から たくさん喜捨いただきました。

施した恩が何倍にもなって返ってきた。
これで 明日、東京に行ってこれます。
今度は、私がいただいた御心(みこころ)を、世のため
人のために“10倍返し!”しなければ・・・・・・。

家の中や教室でも帽子

2013-08-14 23:04:08 | テレビ・映画・芸能人
映画『少年H』で、少年が家の中でも学校の教室でも
制帽を被ったままでいることに、違和感を感じたのは
私だけでしょうか。

帽子は、建物の中に入る前に脱ぐ。それが当然と思って
いたのですが、最近の映画やドラマでは、部屋の中でも
帽子を被っているシーンがやたら目につきます。

最近は、高齢者ほど帽子を取らない。神社で参拝の時も、
茶席でも、能楽堂でも、コンサート会場でも、老人会の
会食でも、私の講演の時も。

さすが、伊勢神宮では「帽子をおとりください」と
注意されていましたが、そう言う神主さんは 烏帽子を
被っているのですからね。

今の老人が帽子を取らないということは、彼らが少年の頃も
そうだったのでしょうか。そうではないと思いますが。


もうひとつ ついでに。ドラマで気になるのは、食事中の
おしゃべり。食事の合間ならともかく、食べ物を口の中に
ほおばりながら しゃべるシーンが結構あります。

何も、ほおばりながらしゃべらなくてもと思うのも
私だけですか?


もひとつ ついで。
『八重の桜』では、冒頭に会津藩の「什の教え」で「一つ、
戸外で婦女子と言を交えてはなりませぬ」と言っていながら、
「綾瀬はるか」さん。西郷頼母や山川大蔵、そして川崎尚之助
さんとも親しげに口きいてましたね。それでないとドラマに
ならないから いた仕方なし。

私が20代の頃まで、会津では、男女が戸外で口をきくこと、
並んで歩くことさえ、できませんでした。従姉妹と歩いて
いると、大人が寄ってきて「どこのもんだ」と注意されたり、
ガキどもが「ひゅーひゅー」と口笛を鳴らして、はやし
立ててきたものです。

こんなこと言うのは、私も、もう古い人間なんですかね。