現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

武田信玄と尺八

2021-06-11 23:05:17 | 尺八・一節切

沼津の【耕雲寺】に、「武田信玄の一節切尺八」が
寺宝として伝存している。

虚無僧研究会会誌『一音成仏』(第19号が 昭和60年)に
掲載されている。
書付には「武田信玄公御調法 一重切御笛 壱対」とあり、
藤巻きの、よく似た作りの「一節切」2管だ。

ただし「(石綱氏が)拝見させてもらったが、写真を撮った
ところ、住職がカンカンになって怒りだし、あわてて
逃げ出したが、門まで追っかけてきて、ネガを返せ、返せ
と迫られ、返却する約束で退散した」というようなことが
書かれているので、取り扱いはご注意。

寺としては非公開で、秘しているようで、ネットで検索
しても「耕雲寺幼稚園」ばかりで、尺八の記述は2件だけ
ヒットした。

寺伝では「耕雲寺は、大永年間(1520年頃)太岳和尚が開山。
北条氏との戦いで、武田信玄がこの地まで進軍した時に、
この寺で休憩をとり、そのお礼に太岳和尚に授けた」と言う。

北条との戦いで、武田信玄が沼津に来たのはいつだろうか。

1554年に相模の北条氏康が、駿河の今川領に侵攻する。
永禄3年(1560)今川義元は、桶狭間で討ち死にする。
永禄11年(1567)武田信玄の駿河侵攻が始まると、北条
方も駿河に攻め入り、興国寺城を奪取した。

「太岳和尚が存命だった」とするならば、この頃がリミットだ。

その後も武田と北条氏との対立は続き、元亀元年(1570)、
武田信玄は興国寺城に攻撃をかけたが失敗。

元亀3年(1572)10月3日、武田信玄は諏訪から伊那谷を
経て遠江に出、12月22日「三方ヶ原」で、家康を駆逐。
翌元亀4年(1573)1月、野田城を取り囲んだ。そこで
毎夜、野田城から聞こえてくる「一節切」の音に誘われて
城に近づき、銃撃を受けたという。

信玄は、よくよく尺八が好きだったのだ。


この時の鉄砲傷か、持病がさらに悪化したか、鳳来寺に
1ヵ月留まる。そこで亡くなったのであろう、武田軍は
信玄の喪を秘して撤退する。


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