宗教哲学者「梅原猛」氏は、そのの著『観阿弥と正成』で
「観阿弥・世阿弥は楠木氏と血縁関係にある」と明言している。
伊賀の旧家、上嶋家に伝わる「上嶋家文書」の中の
「観世 福田 系図」に、「観阿弥の母は橘正遠の娘」と
記されているという。 楠木氏は橘姓なので、正遠は正成の
父ではないかと考えられている。上嶋文書の真偽については、
東大教授の平泉澄氏や、京大教授の林屋辰三郎氏も、
正当性を証明しているとのこと。
つまり系図は
楠木正遠----正成------正勝
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| |--正儀-----正澄-----女--- 一休
|
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女--------観阿弥-----世阿弥
そして一休は、正勝の弟正儀の孫娘と後小松天皇との間に
生まれた子。一休と世阿弥はともに、南朝方の楠木の血が
流れていたのだ。
このことは、早くから知られていたのだろうか。
小説などで、一休と世阿弥が組んで、南朝の再興を願い、
足利義満の暗殺を図ったというような話もある。
後小松天皇の御落胤であった一休は、天皇になるべき
人でしたが、義満が自分の子「義嗣」を天皇にするために
安国寺に押し込められていました。
義満が亡くなり、義嗣の立太子の件も反故にされたの
ですから、一休に「立太子」の話が舞い込んできます。
この時一休17歳。将軍「義持」自ら、一休の元に赴き
ますが、一休は 将軍様に対して「あかんべぇ」をして
追い返したといいます。
そして後小松天皇からも呼び出しを受け、次の天皇を
相談されるのですが、一休は天皇の位を弟に譲るのです。
もし一休が天皇になっていれば、101代天皇になれたの
でした。応永元年1月1日生ですから、よくよく「1」に
縁のある人です。
一休は、天皇の位も肩書きも捨てて、一生を托鉢僧として
生きる覚悟を決めたのでした。
「一休とんち話」の『この橋渡るべからず』は、どちらの端
にもこだわらない中道を説いたものですが、そこには、一休は
父が北朝の天皇、母が南朝の楠木という、全く相反する対極に
ある血を受け継いでおり、南朝からも天皇に祀り上げられる
存在でありながら、北にも南にも与しない生き方を選んだと
いう深い意味が込められているのです。
落語の「一目(ひとめ)上がり」に出てくる「一休の悟(ご)」
「仏は法を売り、祖師は仏を売り、末世の僧は祖師を売る。
汝五尺の身体を売りて、一切衆生の煩悩を済度す。柳は緑、
花は紅の色いろ香。池の面に月は夜な夜な通へども 水も
濁さず影も止めず」。
この「一休の悟(ご)」の出典を探していますが
見つかりません。おそらく、原典と思われる話が、
『一休関東噺咄(はなし)』の上巻・第四にありました。
◆「傾城に引導渡さるる事」
「傾城」とは「遊女」のこと。東海道「赤坂の宿」(現、愛知県
豊川市)の遊女「が臨終にあたって、
一休に「遊女の身では罪深く、 成仏できないと聞きますが、
ぜひ引導をお願いしたい」と一休に懇願する。そこで一休、
「僧は衣を売り、女は紅を売る、柳は緑、花は紅、喝」と。
『一休関東咄』は江戸時代の寛文12(1672)年の刊行。
一休は関東まで赴いていませんので、当時の戯作者の
作り話です。そしてこの短文を元に落語で、これだけの
「詩偈」を創った人の才能には感心します。
一休の父は北朝の「後小松天皇」だが、母は、南朝の忠臣
「楠木正成」の血筋。「楠木正行」の弟「正儀(まさのり)」の
孫娘。であるから、一休は南朝方からも担ぎだされる立場にあった。
その仲介をしたのが「森女」。「森女」とは「住吉の森の女」。
住吉神宮の神官「津守氏」の一族で、「王孫」とか「上郎」と
書かれているので「後村上天皇」の孫娘と思われる。
その住吉神宮は大徳寺と深い関係にあった。津守氏の一族の
者が大徳寺の住持になっており、また大徳寺の窓口として
明との交易で多くの収入を得ていた。
であるから、応仁の乱で焼かれた大徳寺を再建することは
住吉神宮の願いでもあった。
そこで「森女」が、薪村の一休を訪ねる。盲目の女性が
一人で薪村まで旅することなどできるわけがない。
「森女」は、住吉神宮の神官に付き添われて、一休を訪ねた。
輿の乗ってやってきたのだ。その時交わした“旧約”を一休は
無視する。その約束とは、一休が大徳寺の住持となって、
大徳寺を再建することだった。しかし、一休はそんな依頼を
無視する。
しかし、その後、応仁の乱の戦火は薪村まで及ぶようになり、
一休は堺の「住吉神宮」に身を寄せる。そこで「森女」に再会し、
「旧約」を新たにする。
一介の托鉢僧で生涯を終えようとしていた一休が81歳にもなって
「大徳寺の81世 住持」になったのは、住吉神宮の後押しが
あったからなのだ。
一休の没後まもなく弟子たちによって書かれた『一休和尚年譜』に、
「応永27年(1420) 一休27歳、夏の夜 鵜を聞きて省あり」と記されているので、近年の「一休」の物語や漫画本では、よく
「闇の夜に 鳴かぬ烏の声聞けば、生まれる前(先)の父ぞ恋しき」
の歌が載せられている。
『年譜』では「烏(からす)」ではなく「鵜(う)」になっている。
ただし「鵜」と書いて「カラス」と読ませることもあるそうな。
また、「父」ではなく「親」「母」というのもある。「前」は「さき」とも読む。
『年譜』にも、一休作と言われる1,000首ほどの「一休道歌」の中にも、この歌は無かった。
京田辺市の「一休寺・酬恩庵」で発行している『みちしるべ一休』には、
「一休が、烏の鳴声を聞いて“詠み人知らず”のこの歌を思い出して大悟したとある。
つまり、この歌は「一休が詠んだのではなく、その以前から人口に膾炙されていた」ということになる。
一休は「鵜の鳴くのを聞いて悟ったのに、“鳴かぬ烏”とは、逆におかしい。
一休は何をどう悟ったのかが、振り出しに戻ることとなる。
ネットでは、この歌は「白隠の作」というのもあった。
「白隠(1686 - 1769)」の法を継ぐ者(印可を受けた者)は50余人。その最初に「印可」を与えられたのは、なんと「お察(おさつ)」という女性。
「白隠」の親戚で「駿河国 原(現沼津)の庄司家の娘」。若い頃から信仰が厚く、利発であったため、ある日、白隠が「闇の夜に鳴かぬ烏の・・・」の歌を書いて、父親に持たせた。すると、それを見た彼女は「なんだ 白隠も この程度か」と言ったとかで、以来、寺に呼んで禅の公案を学ばせたとか。
「白隠」と言えば「隻手の手」の公案が有名。そして、この「鳴かぬ烏」も公案の一つとか。
東映アニメの「とんちんかんちん一休さん」に出てくる話。
清貧に甘んじ、誠実に生きた武士の子が、その父の死後、貧しさに負けて泥棒をして食いつないでいた。その子を立ち直らせようと一休さん、一計を案じる。
その子の前で一芝居を打って、わざとスリをさせる。
分厚い重い財布を盗んで「しめ、しめ」と大喜び。
財布を開けてみたら「お位牌」。文字を見ると、なんと父親の戒名。その子は、ブルブル震え「父上、父上、申し訳ございません!」と、地の触れ伏して、おいおい泣きだした、とさ。
そこで一休さん「闇の夜に 鳴かぬ烏(からす)の声きけば
生れぬ先の父ぞ恋しき」と、諭したのでした。
◆次は、私の創作話「一休さん」
一休さんは糊口をしのぐために、扇子に絵を描いて売って歩きました。さて、何の絵を描いたでしょう。そう「烏(からす)」の絵です。
さて、一休さん絵の評判を聞いた将軍様が「どれ、一休とやらを連れて参れ。百本ほど買ってやろう」と家来に申しつけました。
お召しにより、一休さん。扇子百本を 将軍様の前に差出しました。
将軍様が その扇子を開いてみると・・・・・。
「ななな なんじゃ、これわぁ!」と、将軍様は大怒り。
扇子はどれもこれも、ただ真っ黒に染められていただけでした。
一休さんは すまし顔で、「“闇夜の烏”見えませぬか?」と。
そして「闇の夜に 鳴かぬ烏(からす)の声きけば 生れぬ先の親ぞ恋しき」と詠んだのであります。
将軍様は その意味が判らず、目を白黒するばかり。
民百姓の声無き声を聞けば、天命を知るということでしょうか。
無教会主義の「キリストの幕屋」が発行している『生命の光』という冊子に、付いていたチラシに目を奪われた。
「闇の夜に鳴かぬ烏の声聞けば 生れぬ前の 父ぞ恋しき」という古歌があります。この歌を大切にされてきた横田さん。東京大空襲で両親を失い、孤児となって波乱の人生。数奇な運命の中で「生まれる前の父=キリスト」に出会った。
と、いやはや びっくり仰天。
私は、この「闇の夜に鳴かぬ烏の声聞けば 生れぬ前の 父ぞ恋しき」の
歌は「一休さん」の作とばかり思いこんでいましたが、
「生まれぬ前の父」が「キリスト」とは、目の覚めるような回答ではありませんか。
そこで、ネットで検索してみると、キリスト教関係者が、結構この歌を利用していることを知りました。いやはや、一休さん、キリスト教にまで影響を与えていたのですね。
いろいろ検索してみると、「この歌は“詠み人知らず”」というのが数点。これは「江戸時代中期の白隠禅師の歌」というのもあり。
「百人一首で覚えた記憶がある」というのも。「これは間違いでしょう」と思ったら、関連記事が ありました。
池田弥三郎の『百人一首故事物語』 河出書房新社, 1984.12.4 「百人一首」の大会で、わざと 無い 歌を詠む。その「から札」の例として、
「鯨吼ゆる 玄界灘をすぎゆけば ゴビの砂漠に 月宿るらむ」そして
「闇の夜に 鳴かぬ烏の声聞けば 生れぬ先の 父ぞ恋しき」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「鈴木大拙」は、次のように解説していました。
一休禅師の「闇の夜に鳴かぬ烏の声聞けば、生まれぬ先の父ぞ恋しき」という道歌があります。
「生まれぬ先の父」こそ「見えないいのち」、「大いなるもの」「如来」であると言えます。
また「鳴かぬ烏の声を聞く」とは、「釈尊の教えたる経文を読み、行を行ずることで聞こえてくる『声なき声』であります。
と、なるほど。「生まれぬ前(先)の父」は、如来であり、キリスト教徒にとっては「キリスト」というわけですな。
ご存知「一休咄」。
商家の檀那が 孫が生まれた祝いにと、一休さんに「何かめでたい言葉を書いてください」と
お願いする。すると一休さん。「父死、子死、孫死」と書いて渡した。
これを見て、檀那は大怒り。「何がめでたい!」と。(そう、誰でも怒るでしょう)
そこで一休、「これが逆だったら、こんな不幸なことはない」と。
たしかに、子に先立たれることほど悲しく辛いことはない。これを「逆縁」という。
祖父が亡くなり、父が亡くなり、そして子が、孫が、順番に死んでいくことこそ
自然で、当たり前の事であり、幸せなことなのだという気づき。
連日、子供の死が報道される。虐待、育児放棄で子供が死ぬ事件も。
その親は、なんとも思わないのだろうか。
京都の南、京田辺市にある「酬恩庵・一休寺」。
一休さんの終焉の地です。寺内にある墓所は、宮内庁の管理と
なっていて、白壁の塀と菊のご紋のはいった門で閉じられています。
一休さんは「後小松天皇の皇子」ということを宮内庁が公認した証です。
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さてさて、この一休寺の門扉。門はあっても肝心の扉がありません。
一休さんの謎解きです。そう、「扉」という字は「戸に非ず」と書きます。
ですから「戸は有らず」です。(私が考えました)。ま、入る者を拒まず、
「誰でもはいってらっしゃい。平気平気、気にしない、気にしない」の
一休の心だぁぁぁ。これ「大道無門」
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扉が無いのは 「一休寺」だけでなく、薪村の民家には ほとんど「門」が無い。
古くから伝わる「屋号」には「清左衛門」「作右衛門」「八右衛門」「與治右衛門」と
門がつく名前が多いそうな。
そして、薪村では、お互いを呼び合うのに「さん」をつけず、名前を呼び捨てに
するとか。「さん」をつけるのは「一休さん」だけとのこと。
そう云えば、慶応も「先生」と呼ぶのは「福沢諭吉先生」のみ。大学教授も
小中高校の先生も公式の場では「〇〇君」。学生、生徒は「〇〇さん」づけでした。
慶応は教授も先生も大抵塾出身者ですから、「先輩、後輩の仲」というのです。
最近の私、どこに行っても「先生、先生」と呼ばれます。奇異な気分になります。
ついでに、もひとつ小話。
一休さんが出かけようとすると、新右衛門さんが「どちらへ?」と
問いかけます。一休さん、扇をかざして、「ここじゃここじゃ」と。
「はて、どちらへ?」と新右衛門さん。一休は笑って「扇は戸に羽と
書くじゃろ、鳥羽じゃよ」と。
ここで云う、鳥羽は伊勢の鳥羽ではなく、鳥羽伏見の戦いで知られる
京都の南、竹田街道の鳥羽です。
京都の南、奈良との境、木津川べりの「京田辺市」は、「一休寺」が
あるところで知ってはいましたが、なんと「磐之姫」が篭った所であり、
さらに「継体天皇」の皇宮。そして、またまたビックリ、なんと
「かぐや姫の里」だというのです。
「かぐや姫」の名前の由来を調べていて、わかりました。
古事記には、開化天皇の孫「大筒木垂根王(おおつつきたりねのみこ)」と
その娘「迦具夜比売命(かぐやひめのみこと)」の名が記されてるとのこと。
かぐや姫(迦具夜比売命)の父である「大筒木垂根王」は、その名前から 「大筒木郷」(京田辺市の普賢寺・興戸・飯岡・三山木を含む地域)の地方の 長ではなかったかと思われ、「竹取の翁」と推定できます。
「垂根」とは「竹の根」、「筒木」の「筒」は竹、「つつき」は、月を連想させます。 山崎の山崎神社所蔵の古図には大筒木垂根王の居館と思われる「大筒城 佐賀冠者旧館地」が記されています。
かぐや姫に求婚する5人の貴公子は、いづれも壬申の乱の功労者であり、 その乱で敗死した大友皇子が、ここの山崎神社に祀られています。
車持皇子の蓬莱の玉の枝を造った6人の鍛冶工匠は、ここの多々羅に住んで
いた製鉄集団ではなかったか。この製鉄集団もかぐや姫の「かぐ」すなわち「火の神」と 関係していると思われます。
かぐや姫の名付け親の「御室戸斎部の秋田(みむろどいんべのあきた)」の「みむろ」
とは神の宿るところであり、京田辺市薪町の甘南備山に比定されます。
甘南備山の北方には大住の月読神社があり、祭神である「月読命(つきよみの
みこと)」も月に関係しています。また、月読神社周辺は竹の子の産地として 知られています。
5人の貴公子への難問のうち、4つは船に乗って唐・天竺まで行くのですから、 海人の集団がかかわっています。
時の帝は、「竹取りの翁の家は山本の近くにあるので狩りに行くような姿で姫を見よう」と いわれたとのことです。かぐや姫は最後に月の世界へ帰っていきますが、その姿は 山本の鶴沢の池に伝わる天女伝説とオーバーラップします。
この他、京田辺市飯岡の「トヅカ古墳」出土の銅鏡「神人車馬画像鏡」には、道教の
神仙・西王母と従者、四頭立て車馬と二頭立て車馬などの画像がみられます。
西王母は不老不死の薬をもって永遠の若さを保ちながら人の世の生命を司っている神 とされています。
このように京田辺市は、神仙思想が満ちあふれた地域であり竹取物語にちなむ地名や
話が沢山存在し、まさに『竹取物語』“かぐや姫の里”といえるのではないでしょうか。
そして、「かぐや姫」と同様の伝説は、ヴェトナムにもあるとか。京田辺市は、その昔、 東南アジアから船で渡ってきたイスラム系渡来人の里だったのです。
室町時代、一休が薪(たきぎ)村に「酬恩庵」を建てて住んだ所でもあります。