現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

礼楽義

2021-02-24 19:33:27 | 尺八・一節切

『宋史』の「律暦志」に記載されている「礼楽義」

 

乾徳4年(966)春、拾遺の孫吉を遣わし、成都にあった孟昶の宮県
(楽器の配置のさま)を京師に取り寄せた。太常に調査させたところ
楽器が音律に合っていないことが分ったので破棄させた。

楽器の中に叉手笛があります。楽工が調査したところ、どれも雅音
(正しい音楽)と相応しておりました。調べてみますと、唐の呂才は
「白雪」の琴の歌を作り、馬滔は「太一」の楽を用い、当時にあっては
宮県の席に与り得ました。

ましてやこの笛は十二旋宮に相当しているのですから、八十四調に
通すこともできます。形状は雅笛に似て、それより小さく、長さ九寸。
黄鐘管に等しく、左に四つ右に二つ、穴が六つあります。

楽人が手に取るときは、両手を交わらせ、拱揖(両手を前に組んで
会釈すること)したようになります。拱宸管と名づけたいと思います。
十二案・十二編磬・登歌両架に一つずつ設置することを法規に定めて下

太祖はいつも雅楽は音が高くて悲哀な感じが漂い、中和に合って
いないと感じていた。王朴・竇儀は音楽に詳しい人物であったが、
両人とも既に亡くなっていた。そこで和�餐に原因を調べさせた。

�餐は「朴が定めた律呂の尺は、古制である西京銅望�帋の石尺に
比べて四分短くなっております。音が高いのはこれが理由です」
と答えた。そこで古法により、別に新尺を作らせ、律呂を定めさせた。
これ以後、雅音は和やかで伸びやかになった。これについては
に記載されている。


一節切り

2021-02-24 19:30:44 | 尺八・一節切

『単管丸』さんからコメント欄に「小田原城で一節切りを
見てきました」と連絡をいただいた。以前私が見てきた
ものと同じなら、普通の竹を切っただけのものだった。

私の所持しているものは、漆を塗り、『憂払』の銘がある。
徳島の『竹ちゃん』さんの一節切りも、私のと全く同様の
形状で、鈴虫の蒔絵がしてある。『竹ちゃん』さんからも
先日電話をいただいていた。「また一節切りを手にいれた」
とのこと。6/7 徳島での本曲大会で拝見させていただきたい
と願っている。漆蒔絵のある一節切りは30本ほど現存して
いるが同一作者によって作られたかのように同じだ。

これに対して、ただ竹を切って孔をあけただけの一節切も
何本か存在している。小田原のは巾が1寸くらいあって、
一節切りにしては太い。素人つくりのようでもある。

北条早雲の末子北条幻庵は、北条氏が秀吉によって滅ぼ
される前年まで生きた人で、尺八の名手だった。彼の作る
尺八は評判で「幻庵切り」として都まで聞こえ、殿上人にも
献上された。小田原城の一節切りがこの幻庵ゆかりの
尺八かはわからない。

一節切は現在の尺八とは上下逆に作る。竹の上の方が
管尻となる。小田原城の一節切は、現在の尺八と同じ。
これがもし「幻庵切り」だとすると、竹の上下を逆に
したことによって、よく鳴ると評判になったのではない
だろうか。

尚、北条幻庵は、今NHK『天地人』に登場している上杉景虎の
養父。景虎ははじめ幻庵の娘と結ばれていた。その仲を引き
裂かれて上杉謙信の下に人質同然に送られたのだ。上杉謙信も
一節切を吹いたとされるが、景虎から教わったのかも。

徳川家康や武田信玄の一節切も伝存している。当時の戦国
武将の間では一節切り尺八が流行していたのだ。