現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

永田洋子の死

2018-07-08 05:04:12 | 社会問題

オウムの麻原教祖こと松本智津夫が処刑されたことで、                                      浅間山荘事件の永田洋子のことを思い出さずにはいられない。


「永田洋子(ひろこ)」は死刑にならず、獄中で病死した。65歳だった。
私より3歳上。昭和42年私が慶応に入った年、永田洋子は
共立薬科大学を卒業して、一時 慶応病院の無給研究生だった。

その後「ベトナム戦争反対」に端を発して「70年安保闘争」が
過激化し、セクト間の抗争も相次いだ。私など、学生服を着て
尺八なんぞを持っているものだから、「右翼」として 襲われる
対象だった。

その後、学生運動は沈静化し、行き場を失った連中が、逃走の
過程で 仲間割れし、陰惨な殺戮を行った。永田洋子の命令で
「総括=処刑」されたのは12人。なぜ 大の男が 小柄な永田の
ヒステリーにおとなしく従ったのか、政治思想うんぬんより、
追い詰められた人間のエゴ、嫉妬として語られる異様な事件だった。

当時「総括=死刑」という言葉が流行語になり、赤塚不二夫の
漫画だったか、すぐ「死刑!」というギャグもあった。

事件から40年。時折「あの永田洋子が まだ生きているらしい。
ぬくぬくと国庫で生かされているのか」などと 話題に上って
いたが、20年も前から、脳腫瘍を煩い、激しい頭痛に苦しみ、
目も見えなくなり、最近は、言葉もままならず、寝たきりの
状態が続いていたという。

殺された者の怨念か、清盛のように 業火に焼かれる苦しみを
味わって果てたか とさえ思えてくる。

それについて、瀬戸内寂聴が、永田洋子と手紙を取り交わして
おり(その数は300通にも上る)、次のように述べている。

「よくもあれだけ殺して平気で生きられる」という声も、
私(寂聴)はよく聞く。そんな時、私は『汝の罪なき者、石を
もて彼女を撃て』と言ったキリストの言葉を思い出さずには
いられない」と。



永田洋子と瀬戸内寂聴の往復書簡

2018-07-08 05:00:33 | 社会問題

永田洋子(ひろこ) は、瀬戸内寂聴に300通を超える書簡を
送っていたと云う。本になって出版されている。
『瀬戸内寂聴・永田洋子往復書簡―愛と命の淵に』 (福武文庫)

永田洋子は、逮捕されたのが 1972年。27歳だった。その
12年後の1984年に脳腫瘍の手術を受けた。39歳で脳腫瘍。
その後、脳萎縮で、激痛に苦しみ、目も煩った。彼女の
手記によれば、

「激しい頭痛がする。夜中に思わず痛さで飛び起き、獣の
ような うめき声をあげずにはいられないほどのものであり、
そのうち身体じゅうに電流を流されているような感じになり、
そのときは声をあげて泣きわめかずにはいられなくなる。
やがて足がもつれ、歩いている途中でも倒れるようになる。

便器に腰掛けたまま失神し、転げ落ち、嘔吐する。床に
流れた糞尿のなかに顔をつっこんだまま気絶からさめない。
日によっては洗面器二杯にも吐くことがある。手足がはげしく
痙攣しはじめる」

実に、死刑執行より苦しい生き地獄だったようだ。それは、
情け容赦のないリンチを受け、糞尿垂れ流しの辱めを受け
ながら死んでいった者たちの祟(たた)りかと、世間の人は
思うだろう。

しかし、瀬戸寂聴は、「人は皆 死ねば 仏様になるのですから、
死んだ者が祟ったり、悪さをすることはありません」という
「法華経」の心で、永田洋子を励まし続けた。

私も「幕妄想」「地獄・極楽も、前世も来世も、輪廻転生も、
因果応報も、所詮は人が作った妄想」という禅宗の立場で、
「 霊魂の祟り」とか「除霊」などは 本来の仏教にはないと
否定してはいるが、そんな私でも
永田洋子の病は「因果応報」と思ってしまう。

宗教は人が作ったものだが、宗教心があるから、人の人たる
所以であって、宗教心が無ければ、獣にも劣る「鬼畜」か
とも思う。

親鸞や日蓮だったら、永田洋子をもどう救うのだろうか。
「『南無阿弥陀仏』あるいは『南無妙法蓮華経』と一心に
唱えれば極楽往生できる」と説いて、それで 永田洋子は
救われただろうか。永田洋子が救われれば、殺された14人の
人たちの霊は浮かばれるのか。霊が存在しないならば、
遺族の感情はどうなるのか。

永田洋子の 死刑執行より辛い 生き地獄の末の死によって、
宗教の根幹を考えさせられる。