◆「賛」
禅僧では、弟子に自分の肖像画(頂相)を描かせ、そこに
画讃をいれて、弟子に与える習慣がある。
室町時代には、賛詩を必須とする詩画軸、上部に賛のある
寒山拾得などの禅画が多数制作された。
江戸時代には浮世絵に 狂歌や俳句の賛を書くことも流行った。
◆「偈(げ)」
「偈」とは、仏の教えや仏・菩薩の徳をたたえるのに
韻文の形式で述べたもの。「偈頌(げじゅ)」ともいう。
禅僧が悟境を韻文の体裁で述べたもの。中国の偈は
押韻しているのが普通であるが、日本人の「詩偈」、
「法語」には、韻を踏まない破格のものも多い。
一休の『狂雲集』は「漢詩集」と紹介されているが、
正確にいうと「頌、偈、号、賛」と「詩」を集めた
ものである。
その区別は 内容で決められる。
「偈」と「頌」は 仏教的なテーマを扱っていて、
「賛」は 人物を 詠う作品。
「号」は 弟子に法号を与える時に作る作品。
根本的な対立は「偈・頌」と「詩」にある。
そもそも、禅僧にとって、仏教と関係のない
「ただの詩」を作るのは、普通な行為とは
決して言えない。一休は、詩に耽(ふけ)り、
尺八を吹いた。それは“禅僧”としては
あるまじき行為、破戒だったのだ。
しかし、それはやがて、詩人や文人達の間でも
禅への関心を呼ぶようになり、詩や文学にも
禅の影響を感じるようになる。
狂言の『楽阿弥』では「じょ=頌」と言っている。
「褒(ほ)める、ほめ讃える」の意で「賛」と
同義か。
「かの宇治のろうあんじゅ(朗庵主か?)の尺八のじょ(頌)
にも、『両とふ(頭)をせつだんしてより、尺八寸中
古今に通ず、吹き起こす無常心の一曲 三千里の外
知音絶す」と。
これは「一休の尺八の友で、宇治に住んでいたという
朗庵(ろうあん)」の絵の上に書かれているので「賛」
なのだが、『体源抄』には「一休の作」として出
てくる「偈」である。
虚無僧の沿革について『虚鐸伝記国字解』では「楠正勝が“虚無”と
号して、尺八を吹き托鉢をしながら東国に落ち延びたことにより、
楠正勝が虚無僧の元祖となった」としている。正史では「楠正勝」の
存在自体疑わしいとされているので、全くの創作だが、ではなぜ
「楠正勝」を虚無僧の元祖としたのかが興味深い。
虚無僧はどうも南朝との関わりが色濃く、「反政府」的立場に
身を置く存在と見られている節がある。
まず「紀州由良の興国寺」は、実は、法燈国師覚心が開創した時は、
高野山真言宗の末寺で「西方寺」だった。鎌倉時代のことである。
それが、「覚心」の弟子「弧峰覚明」の時、建武の中興となり、
後醍醐天皇、後村上天皇の帰依を受け、南朝の号「興国」から
「興国寺」と改められた。
興国寺が「普化宗」の本山になったのは江戸時代も中頃のこと。
京都の虚無僧寺「明暗寺」は、本来正式な寺ではなかった。
虚無僧の溜り場にすぎなかった。幕府から、寺の宗旨を問われて、
由緒をでっちあげたのが『虚鐸伝記国字解』。そして、その物語を
元に、興国寺に「本山」の引き受けを再三お願いして、強引に
認めさせたものだった。しかし、これには、臨済宗の大本山である
妙心寺から「虚無僧寺を末寺にするとは何ごとか」と詰問を受け、
興国寺側は「史料が焼失して、詳しいことは不明だが・・・」と、
苦しい言い訳をしている。
明暗寺は「末寺」となるために、「看主は興国寺で得度受戒を
受ける。看守は毎年挨拶に伺候する。看守が亡くなったら
興国寺に埋葬してもらう」という条件を約束した。つまり、
それぞれに一定のお金を上納するということ。ところが、その
約束は、最初だけで、その後一度も実行されなかった。
ネットの「興国寺」のガイドで、「虚無僧は、興国寺で認証を
受けなければならない」というようなことが書かれているが、
そのようなことはない。
さて、ではなぜ「興国寺」が、京都明暗寺の本山に選ばれたのか。
それは「南朝方の寺」だったからと私は推察する。しかし、唐突に
選んだのではなく、「興国寺の開山・法燈国師が虚無僧と関係が
あるらしい」という言い伝えは、江戸時代の初期にはできていた。
『糸竹初心集』にそのように書いてある。「但し了見せず」と。
なぜ、「由良の法燈」が「虚無僧」と関係あるらしいとなったのか。
それは「一休」ではないか?。
虚無僧は「一休」を信奉していたのではないかと私は考えている。
「一休」の父は、北朝の後小松帝。母は「南朝の重臣の娘」という。
それで、「一休」は「北朝101代目の天皇となるべき人だったが、
母方が南朝ということから、南朝からも南朝の天皇として担ぎ出される
運命にあった。北と南の板ばさみになった一休が選んだ道は、北でも
南でもない。天皇になることを拒み、一生を托鉢僧として生きること
だった。それが「この橋(端)渡るべからず」の知恵だ。
そのことを一休は、「普化禅師」のゲ「明頭来明頭打、暗頭来暗頭打」を
とりあげて、諭している。そして「由良の開山」の作として、次の歌を
紹介している。
「なにごとも 夢幻と悟りては、現(うつつ)なき世のすまひなりけり。
「由良の開山」とは興国寺の開山「法燈国師覚心」のこと。
『一休和尚法語』は、慶安元年(1648)の刊行。これとて一休自身の作
という保証はない。一休に仮託して、誰かが創作したものだろう。
偽作だ。だが、なぜ「由良の開山」が出てくるのかに私は注目している。
『邦楽ジャーナル』に只今毎月連載しています。