現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

「金太郎」って?

2014-05-11 23:18:54 | 虚無僧日記
老人施設などでのボランティア演奏では、歌詞無しで
誰でも口ずさめる“童謡”で“どうよォ”。

「はい、次は“太郎シリーズ”です」と言って「浦島太郎」。
「桃太郎」は 結構 うけます。「三番目は?“金太郎”」。

若い世代に「キンタロウ」と言えば、前田敦子のモノマネの
キンタロー」でしょうが、ご年配の方はほとんど知りません。

でも、高齢者でも「まさかり かついで金太郎。熊にまたがり
お馬のけいこ」の歌は知っていても、「金太郎」について
知っている人は少ないようです。

「金太郎」は神奈川県の足柄(あしがら)山に住んでいたという
「坂田の金時」で、後に「源頼光」の家来になり、丹波の国、
大江山(現在京都府福知山市)に住む「酒呑(しゅてん)童子を
退治したという物語です。

あるアンケート調査で、「坂田の金時」について、正確に
答えられたのは 4700人中 67人で、わずか 1.4% だったとか。

ちなみに、「桃太郎」は、「川でおばあさんが桃を拾い、
その桃から生まれ、サル・キジ・イヌを仲間にして鬼退治を
した物語」と答えられたのが 91%。

「浦島太郎」は、「カメを助けた浦島太郎が竜宮城に招待され、
乙姫さまに玉手箱をもらって、その玉手箱を開けたら、
おじいさんになってしまった物語」と答えられた人は 73%。
とのこと。(トリビアの種No.063)。

もう、保育園や幼稚園では「○○太郎」も「一休さん」も
知らないとのこと。

ついでに「○○太郎」の続きで「走れコータロー」を
やりましたが、誰も知らず、どっちらけでした。

浄土真宗の“他力本願”とは?

2014-05-11 18:33:33 | 虚無僧日記
先日、浄土真宗のお寺で聞いた「勅使(てし)映照」師の「お話し」。

浄土真宗では「法話」ではなく「聞法(もんぽう)」と
いうのだそうだ。「聞法」は「法を聞く」ではなく
「法に(生き方を)聞くのだ」とも。

そもそも「浄土真宗」は、世間一般が 思っている仏教の
常識を覆す宗派だ。「お盆」も「お彼岸」も「水子供養」
も「般若心経」も“必要ない”と切り捨てる。「霊」の
存在も否定する。死ねば 誰でも即「成仏」するのだから、
「亡くなった人の霊が、まだ成仏できずにさまよって
いるので、○○しなさい」というような「霊感商法」を
非難する。「お墓の方位」だの「墓石」の色形にも
こだわらない。だいたい、お坊さんなのに髪を剃らない。

そうしてみると虚無僧と同じだ。

「浄土真宗」は、「阿弥陀の本願・他力」に救いを求める。
「他力」は「他人任せ」とか「念仏を唱えれば、救われる」
と思われているが、「それは違う」という。

その誤解をどう説明するかが、難しい。

「勅使(てし)映照」師は、「神社やお寺で、手を合わせて
“お願いごと”をして、宝クジ当たりましたか?、戦争に
勝てましたか?」と具体的に 面白おかしく話した後、
「青は青。赤は赤、白は白で、それぞれ美しく輝けばいい。
他と比較するな。起きてしまったことの原因や責任を
他に求めるな。すべては“自分のこと”として、本分を
全うせよ」。「弥陀の本願(=誰でも救う)を信じて、
オンリーワンの尊い命を真剣に生き切ることだ」と。

雑事(=神や他の宗教を信じる迷い事)を捨て、ひたすら
「阿弥陀様の本願を信じ」「自力更生」を説くのだから、
「自力本願」の虚無僧とも共通するものがある。







一休さん、木刀をさして

2014-05-11 18:11:47 | 一休と虚無僧
「一休とんち話」は、ほとんどが後世の人の創作。
なのだが・・・・。ネットに「アニメの一休さんと、
実在の一休宗純を混同している人がいますが、全く
別人です」というのがあった。
そこまで言われると、ウ~ん、ちょっと待って である。

「一休とんち話」は、事実ではないが、実によく一休の
本質を表しているのである。一休を知り尽くした上で
「一休さんなら・・したであろう」という内容に
なっているところが すごい。

実在した「一休宗純(1394-1481)」の行状については、
一休の没後まもなく弟子たちによって編纂された
『一休和尚年譜』によって知れる。

「一休とんち話」は、その『年譜』には ほとんど
出てこないが、逆に『年譜』にはあって「とんち話」に
無いのが「木刀」の話である。

一休 42歳、堺に居た頃、刀を差して市中を闊歩し、
刀の柄を叩いては、見る人を挑発した。人々は、
「刀は人を殺す道具。それを坊さんが腰に差すとは
どういうわけか」と問いただすと、一休は「わからんか?
今、そこらにいる贋坊主どもは、寺にいる時は 真剣の
ように見えるが、一歩外に出れば、ほれこの通り」と
抜いてみせ、「木刀にすぎない。木刀では人を殺すことも
活かすこともできん」と。人々はどっと笑った。

この逸話から、「一休・朱太刀像」というのが何点も
描かれている。椅子に腰掛ける一休の横には、杖の
代わりに、朱鞘の長い刀が描かれている。

「朱太刀」は一休のシンボルなのだが、なぜか、
江戸時代に書かれた「一休咄」には出てこない。


「贋坊主」とは、一休の兄弟子「養隻(ようそう)」の
ことを差す。「養隻」は、堺の商人たちに禅のを広め、
「公案」を売って、大徳寺に 冨と繁栄をもたらした。
一休は、それが気にいらない。「禅を金で売るもの」
として厳しく非難した。

一休は「木刀」を差したパフォーマンスで、堺市民の
喝采を浴び、人気を取りつけたのだった。

後に、82歳で、大徳寺の住持となり、応仁の乱で
焼失した大徳寺の再建にあたったときには、一休は
堺の豪商たちから、莫大な資金の提供を受けている
のである。