『此等の経経に二つの失あり、一には行布を存するが故に仍お未だ権を開せずとて迹門の一念三千をかくせり、二には始成を言うが故に尚未だ迹を発せずとて本門の久遠をかくせり、此等の二つの大法は一代の綱骨一切経の心髄なり、迹門方便品は一念三千二乗作仏を説いて爾前二種の失一つを脱れたり、しかりといえどもいまだ発迹顕本せざればまことの一念三千もあらはれず二乗作仏も定まらず、水中の月を見るがごとし根なし草の波の上に浮べるににたり、本門にいたりて始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる、四教の果をやぶれば四教の因やぶれぬ、爾前迹門の十界の因果を打ちやぶつて本門の十界の因果をとき顕す、此即ち本因本果の法門なり、九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて真の十界互具百界千如一念三千なるべし。(開目抄上 197頁)』
釈迦が出家して、菩提樹の下に端坐して悟りを開いてから、延々四二年間もかけて説いた経々を、権経とも爾前経とも言います。
この爾前経には、大きく二つの欠点があります。一つには、十界それぞれの間に差があって、絶対にそれは越えられず、成仏といっても名前だけあって、実のないものになってしまう、という事です。
二つには、三十歳で悟りを得た釈迦が説いた教えであるために、成仏のための方法が明かされず、したがって、誰も成仏はできない、という事です。
爾前経では、多くの衆生が成仏できません。まず二乗、そして女性、悪人。その他にもいろんな理由を付けて、まるで誰一人成仏などできないことを証明でもするかのような気がしてしまうほど、様々な人たちが成仏できない事を教えています。
それも仕方がないのです。十界それぞれに壁があって、九界の衆生は、絶対に仏界には行けないのですから。
それを、まず法華経に入って、十界互具・百界千如・一念三千が明かされることによって、すべての衆生の成仏の因が明かされるのです。それまで、絶対に成仏はできない、と散々仏から罵られてきた舎利仏は、「方便品第二」で十如是が明かされると、感涙にむせんだ、と言います。
しかし十如是が説かれ、すべての衆生に成仏の可能性が明かされたと言っても、それはまだ名のみ有って実のないものでした。どうして成仏できるのか、その肝心な部分が、迹門ではまだ明かされていなかったからです。
それが「本門如来寿量品第十六」に来て、初めて久遠実成が明かされるのです。それによって、一切衆生は、仏と等しくなる方法が、具体的に示されます。
ここではそれが目的ではありませんので、その内容については深くは触れません。しかし「本門」と「迹門」とでは、絵に描いた餅と、搗いたばかりの温かくて柔らかい餅ぐらいの差があるのです。それほどまでに「本門」と「迹門」は違うのです。
任用試験の時、五重の相対を学び、最も理解しにくかったのが、この「本迹相対」でした。教えていても、ここが一番分かっていない、という事が感じ取れました。それは同じ釈迦の法華経の中での相対だからかもしれません。
しかし理屈で成仏を説くのと、自らの体験を持って示すのと、その差は歴然です。「迹」に対して、いかに「本」が優れているのか。それは「迹門」を、まだ権経と変わらないとするほどの違いなのです。
しかしこの「迹門」と「本門」の差も、日蓮大聖人の説かれた、南無妙法蓮華経に対すれば、ほとんど差はなくなってしまいます。
それは「種脱相対」になってきますので、今回はこれまでとしましょう。
釈迦が出家して、菩提樹の下に端坐して悟りを開いてから、延々四二年間もかけて説いた経々を、権経とも爾前経とも言います。
この爾前経には、大きく二つの欠点があります。一つには、十界それぞれの間に差があって、絶対にそれは越えられず、成仏といっても名前だけあって、実のないものになってしまう、という事です。
二つには、三十歳で悟りを得た釈迦が説いた教えであるために、成仏のための方法が明かされず、したがって、誰も成仏はできない、という事です。
爾前経では、多くの衆生が成仏できません。まず二乗、そして女性、悪人。その他にもいろんな理由を付けて、まるで誰一人成仏などできないことを証明でもするかのような気がしてしまうほど、様々な人たちが成仏できない事を教えています。
それも仕方がないのです。十界それぞれに壁があって、九界の衆生は、絶対に仏界には行けないのですから。
それを、まず法華経に入って、十界互具・百界千如・一念三千が明かされることによって、すべての衆生の成仏の因が明かされるのです。それまで、絶対に成仏はできない、と散々仏から罵られてきた舎利仏は、「方便品第二」で十如是が明かされると、感涙にむせんだ、と言います。
しかし十如是が説かれ、すべての衆生に成仏の可能性が明かされたと言っても、それはまだ名のみ有って実のないものでした。どうして成仏できるのか、その肝心な部分が、迹門ではまだ明かされていなかったからです。
それが「本門如来寿量品第十六」に来て、初めて久遠実成が明かされるのです。それによって、一切衆生は、仏と等しくなる方法が、具体的に示されます。
ここではそれが目的ではありませんので、その内容については深くは触れません。しかし「本門」と「迹門」とでは、絵に描いた餅と、搗いたばかりの温かくて柔らかい餅ぐらいの差があるのです。それほどまでに「本門」と「迹門」は違うのです。
任用試験の時、五重の相対を学び、最も理解しにくかったのが、この「本迹相対」でした。教えていても、ここが一番分かっていない、という事が感じ取れました。それは同じ釈迦の法華経の中での相対だからかもしれません。
しかし理屈で成仏を説くのと、自らの体験を持って示すのと、その差は歴然です。「迹」に対して、いかに「本」が優れているのか。それは「迹門」を、まだ権経と変わらないとするほどの違いなのです。
しかしこの「迹門」と「本門」の差も、日蓮大聖人の説かれた、南無妙法蓮華経に対すれば、ほとんど差はなくなってしまいます。
それは「種脱相対」になってきますので、今回はこれまでとしましょう。