信心する上で、最も気を付けなければならないものに、「三類の強敵」があります。
三類の強敵とは、第一に「俗衆増上慢」、第二に「道門増上慢」、第三に「僣聖増上慢」を言います。
この中で、第一と第二はともかく、第三の僣聖増上慢は「忍び難き」と大聖人様さえも仰せです。
では、その「僣聖増上慢」とは、どんなものなのでしょうか。御書の文証から、検証して行きたいと思います。
法華経勧持品第十三には、次のようにある、と書かれています。
『或は阿練若に納衣にして空閑に在つて自ら真の道を行ずと謂いて人間を軽賎する者有らん利養に貪著するが故に白衣の与に法を説き世に恭敬せらるる事六通の羅漢の如くならん是の人悪心を懐き常に世俗の事を念い名を阿練若に仮りて好んで我等が過を出さん而も是くの如き言を作さん此の諸の比丘等は利養を貪るを為つての故に外道の論義を説き自ら此の経典を作りて世間の人を誑惑す名聞を求むるを為つての故に分別して是の経を説くと、常に大衆の中に在りて我等を毀らんと欲するが故に国王・大臣・婆羅門・居士及び余の比丘衆に向つて誹謗して我が悪を説いて是れ邪見の人・外道の論議を説くと謂わん』
『阿練若』とは、人里から近からず遠からず離れた、比丘が修行するところ、と仏教哲学大辞典にはあります。その、静閑な場所に住んで、『真の道を行ずと謂いて人間を軽賎する』のだそうです。
この、近からず遠からず、と言うところがミソなのではないか、と思ってしまいました。
人里から遠く離れた所では、修業はできますが、その姿を見てもらうには不便です。また、完全な自給自足の生活を強いられ、欲望が満たされないのではないでしょうか。
自らの欲望を満足させる近さと、修業していると認めてもらうための静かな原野と、その両方を満足させる場所、だと言うことなのでしょう。
次に『利養に貪著するが故に』とあります。金銭に執着して、と読めばいいのでしょうか。
『白衣の与に法を説き世に恭敬せらるる事六通の羅漢の如くならん』
見せかけだけの為に法を説き、人々には、誰よりも立派なお方と尊敬されるように見える、となると、言う事は立派だけれど、実際はどうなのさ、と言う解釈もできましょうか。
この人は、自分の住んでいる所が、修業に適した場所だから偉いんだ、と言ったか言わないか、それは知らないけれど、常に大衆と共にある人を指して、「お前は外道だ」と言ったりします。
しかも自分勝手な法を説いて、世間の人を惑わして、実は名聞名利を求めているのです。
自分が不利になってきたら、権力者に対して、自分を攻撃する者を訴え、自分こそ正義、とさらに印象つけようとするのです。
こんな不届き者は、大聖人様の時代から、常に存在して来ています。
権力者を利用し、使えるものは何でも使う。恥も外聞もないくせに、自分を支持する者に対しては、どこまでも謙虚で、思いやり深く見せ続け、また外に向かっても、実に紛らわしくマトモな言葉を混ぜ込んで来るのです。
僣聖増上慢、と言うと、広宣流布を妨げる特別な存在のように感じていましたが、案外身近な所にいるのではないか、と思ってしまうのですが、皆さん、どう判断されるのでしょうか。
三類の強敵とは、第一に「俗衆増上慢」、第二に「道門増上慢」、第三に「僣聖増上慢」を言います。
この中で、第一と第二はともかく、第三の僣聖増上慢は「忍び難き」と大聖人様さえも仰せです。
では、その「僣聖増上慢」とは、どんなものなのでしょうか。御書の文証から、検証して行きたいと思います。
法華経勧持品第十三には、次のようにある、と書かれています。
『或は阿練若に納衣にして空閑に在つて自ら真の道を行ずと謂いて人間を軽賎する者有らん利養に貪著するが故に白衣の与に法を説き世に恭敬せらるる事六通の羅漢の如くならん是の人悪心を懐き常に世俗の事を念い名を阿練若に仮りて好んで我等が過を出さん而も是くの如き言を作さん此の諸の比丘等は利養を貪るを為つての故に外道の論義を説き自ら此の経典を作りて世間の人を誑惑す名聞を求むるを為つての故に分別して是の経を説くと、常に大衆の中に在りて我等を毀らんと欲するが故に国王・大臣・婆羅門・居士及び余の比丘衆に向つて誹謗して我が悪を説いて是れ邪見の人・外道の論議を説くと謂わん』
『阿練若』とは、人里から近からず遠からず離れた、比丘が修行するところ、と仏教哲学大辞典にはあります。その、静閑な場所に住んで、『真の道を行ずと謂いて人間を軽賎する』のだそうです。
この、近からず遠からず、と言うところがミソなのではないか、と思ってしまいました。
人里から遠く離れた所では、修業はできますが、その姿を見てもらうには不便です。また、完全な自給自足の生活を強いられ、欲望が満たされないのではないでしょうか。
自らの欲望を満足させる近さと、修業していると認めてもらうための静かな原野と、その両方を満足させる場所、だと言うことなのでしょう。
次に『利養に貪著するが故に』とあります。金銭に執着して、と読めばいいのでしょうか。
『白衣の与に法を説き世に恭敬せらるる事六通の羅漢の如くならん』
見せかけだけの為に法を説き、人々には、誰よりも立派なお方と尊敬されるように見える、となると、言う事は立派だけれど、実際はどうなのさ、と言う解釈もできましょうか。
この人は、自分の住んでいる所が、修業に適した場所だから偉いんだ、と言ったか言わないか、それは知らないけれど、常に大衆と共にある人を指して、「お前は外道だ」と言ったりします。
しかも自分勝手な法を説いて、世間の人を惑わして、実は名聞名利を求めているのです。
自分が不利になってきたら、権力者に対して、自分を攻撃する者を訴え、自分こそ正義、とさらに印象つけようとするのです。
こんな不届き者は、大聖人様の時代から、常に存在して来ています。
権力者を利用し、使えるものは何でも使う。恥も外聞もないくせに、自分を支持する者に対しては、どこまでも謙虚で、思いやり深く見せ続け、また外に向かっても、実に紛らわしくマトモな言葉を混ぜ込んで来るのです。
僣聖増上慢、と言うと、広宣流布を妨げる特別な存在のように感じていましたが、案外身近な所にいるのではないか、と思ってしまうのですが、皆さん、どう判断されるのでしょうか。