『蒼蝿驥尾に附して万里を渡り碧蘿松頭に懸りて千尋を延ぶ。(立正安国論 26頁)』
かつてオグリキャップと言う競走馬がいました。地方から中央へ移籍、G1を四回も制した、芦毛の怪物と言われた名馬です。
生まれた時、片方の前脚が外に曲がっていて、自力で立ちあがる事が出来ず、最初は牧場主が手伝ったと言います。血統もそれほどでもなく、地方のK競馬場でデビュー。やがて中央競馬界へ進出しました。
彼の引退セレモニーは、中央競馬場とK競馬場で行われ、この馬の名を冠したレースは、最初はK競馬場のダートグレード競争として行われ、やがて地方交流の競馬となり、春には地方競馬のトップの馬達が揃う事となりました。
オグリキャップは晩年、灰色だっ毛色もすっかり白くなり、二十五歳まで生き、その死はニュースにまでもなったほどの人気馬でした。
閑話休題。
冒頭の御文は、あまりにも有名な、立正安国論の中の一文です。自らには何の力はなくとも、力ある駿馬の尻尾に掴まっていけば、アオバエでも万理を渡る事ができ、本来なら横にはびこることしかできないツタでも、松の枝を頼りに上っていけば千尋の高さに到達できる、と言うものです。
ここで言うアオバエやツタは衆生、駿馬と松は仏法を表している事は、御存知だと思います。
で、少し観点を変え、駿馬の尻尾に掴まったアオバエが、万理を渡る困難について考えてみたいと思います。
普通競走馬は百メートルを六秒ほどで走ります。中央で活躍しているものの中には、それより速い馬も、当然います。
しかも一流の馬になればなるほど、手入れも行き届き、尻尾の先まで磨きあげられていますから、アオバエが馬の尻尾に掴まるためには、相当な努力を必要とする、と言う事です。最高速度で走りながら、しかもバランスをとるために馬が激しく尻尾を振ったら、ハエなど簡単に弾き飛ばされてしまうでしょう。
一度弾き飛ばされたハエは、絶対に馬の尻尾を追っかける事はできないのです。
ある幹部は言いました。
「私がハエだったとして、ただ駿馬の尻尾につかまっているだけではつまらないから、思いっきり周りの人に手を振って、こんなすごい馬につかまっているんだと、アピールしながら行くの。そのためには、絶対外れないように、馬の尻尾を体中にぐるぐる巻きにして、自分自身は身動きつかないようにしときたいのよね。そうしないと弾き飛ばされちゃうでしょう」
その日の最高幹部の指導です。その人は、立正安国論の一節を引きながら、ユーモラスに、絶対退転をしてはいけない、と訴えたのです。それは宗門問題の吹き荒れた地に住むゆえの、自らに対する決意でもあったのでしょう。
しかし残念な事ですが、途中で正しい信心の軌道から外れてしまう人がいる事も確かです。そこで問題になるのは、外れた後の態度ではないでしょうか。
自らの意思で退転の道を選んだ人たちは、等しくその宗教の悪口を言います。自分を留めておく器ではなかった、とあれこれ理屈にならない理屈を並べまくって、自己正当化を図ります。
何を言っても、信教は自由ですから構わないのですが、外れた事だけが事実なのです。
そして、もっとたちの悪いのが、尻尾に掴まる力もなくて、早々に弾き飛ばされているのにもかかわらず、まだ掴まっているつもりになっている連中です。とっくに馬の影は見えなくなってしまっているのに、まだ尻尾に掴まっているものと勘違いをしている、そんな者たちの事を、仏法用語で「獅子身中の虫」と言います。
彼らは、自分では変わらず尻尾に掴まっているつもりで、実は別の馬に乗り換えてしまっているのですが、そうとは気付かず、早すぎる馬に文句タラタラ、ケチばかり喚き続けます。
しかもその内容は、元の馬の特徴とは似ても似つかぬ事ばかり。気に入らないから気に入らないんだ、と言ってしまえばいいものを、自分の理屈に馬の方を押し込めようとしてしまうので、どうしても納まりきれなくなってしまうのです。
彼らは、とにかくどこかの馬に掴まっていないとカッコつかないと思い込んで、弾き飛ばされる事の無い馬の形をしたものに乗り換えたのかもしれません。しかしそれは、馬の形をしただけの、木馬みたいなものかもしれません。しかし形だけが似ている事で満足し、駆け去った駿馬に掴まり続けている者たちに、お前たちはマインドコントロールされているのだ、そんな速度で走れるはずがない、目が回って、真実が見えなくなってしまっているのだ、と誹謗中傷の限りを尽くすのです。
このたとえ話が、ただの馬とハエの話だけだったら、問題はないのでしょうが、事は正しい信仰についているかどうか、と言う事です。
この駿馬は、掴まり続ける者たちを乗せて、世界広布へ走り続けます。
ゴールは、一生成仏。
ひとたび弾き飛ばされるか、手を離してしまったら、もう二度とその一生成仏の軌道に戻る事は出来ないのです。
着差 未来永劫
そんなアナウンスが聞こえてきそうではありませんか。
かつてオグリキャップと言う競走馬がいました。地方から中央へ移籍、G1を四回も制した、芦毛の怪物と言われた名馬です。
生まれた時、片方の前脚が外に曲がっていて、自力で立ちあがる事が出来ず、最初は牧場主が手伝ったと言います。血統もそれほどでもなく、地方のK競馬場でデビュー。やがて中央競馬界へ進出しました。
彼の引退セレモニーは、中央競馬場とK競馬場で行われ、この馬の名を冠したレースは、最初はK競馬場のダートグレード競争として行われ、やがて地方交流の競馬となり、春には地方競馬のトップの馬達が揃う事となりました。
オグリキャップは晩年、灰色だっ毛色もすっかり白くなり、二十五歳まで生き、その死はニュースにまでもなったほどの人気馬でした。
閑話休題。
冒頭の御文は、あまりにも有名な、立正安国論の中の一文です。自らには何の力はなくとも、力ある駿馬の尻尾に掴まっていけば、アオバエでも万理を渡る事ができ、本来なら横にはびこることしかできないツタでも、松の枝を頼りに上っていけば千尋の高さに到達できる、と言うものです。
ここで言うアオバエやツタは衆生、駿馬と松は仏法を表している事は、御存知だと思います。
で、少し観点を変え、駿馬の尻尾に掴まったアオバエが、万理を渡る困難について考えてみたいと思います。
普通競走馬は百メートルを六秒ほどで走ります。中央で活躍しているものの中には、それより速い馬も、当然います。
しかも一流の馬になればなるほど、手入れも行き届き、尻尾の先まで磨きあげられていますから、アオバエが馬の尻尾に掴まるためには、相当な努力を必要とする、と言う事です。最高速度で走りながら、しかもバランスをとるために馬が激しく尻尾を振ったら、ハエなど簡単に弾き飛ばされてしまうでしょう。
一度弾き飛ばされたハエは、絶対に馬の尻尾を追っかける事はできないのです。
ある幹部は言いました。
「私がハエだったとして、ただ駿馬の尻尾につかまっているだけではつまらないから、思いっきり周りの人に手を振って、こんなすごい馬につかまっているんだと、アピールしながら行くの。そのためには、絶対外れないように、馬の尻尾を体中にぐるぐる巻きにして、自分自身は身動きつかないようにしときたいのよね。そうしないと弾き飛ばされちゃうでしょう」
その日の最高幹部の指導です。その人は、立正安国論の一節を引きながら、ユーモラスに、絶対退転をしてはいけない、と訴えたのです。それは宗門問題の吹き荒れた地に住むゆえの、自らに対する決意でもあったのでしょう。
しかし残念な事ですが、途中で正しい信心の軌道から外れてしまう人がいる事も確かです。そこで問題になるのは、外れた後の態度ではないでしょうか。
自らの意思で退転の道を選んだ人たちは、等しくその宗教の悪口を言います。自分を留めておく器ではなかった、とあれこれ理屈にならない理屈を並べまくって、自己正当化を図ります。
何を言っても、信教は自由ですから構わないのですが、外れた事だけが事実なのです。
そして、もっとたちの悪いのが、尻尾に掴まる力もなくて、早々に弾き飛ばされているのにもかかわらず、まだ掴まっているつもりになっている連中です。とっくに馬の影は見えなくなってしまっているのに、まだ尻尾に掴まっているものと勘違いをしている、そんな者たちの事を、仏法用語で「獅子身中の虫」と言います。
彼らは、自分では変わらず尻尾に掴まっているつもりで、実は別の馬に乗り換えてしまっているのですが、そうとは気付かず、早すぎる馬に文句タラタラ、ケチばかり喚き続けます。
しかもその内容は、元の馬の特徴とは似ても似つかぬ事ばかり。気に入らないから気に入らないんだ、と言ってしまえばいいものを、自分の理屈に馬の方を押し込めようとしてしまうので、どうしても納まりきれなくなってしまうのです。
彼らは、とにかくどこかの馬に掴まっていないとカッコつかないと思い込んで、弾き飛ばされる事の無い馬の形をしたものに乗り換えたのかもしれません。しかしそれは、馬の形をしただけの、木馬みたいなものかもしれません。しかし形だけが似ている事で満足し、駆け去った駿馬に掴まり続けている者たちに、お前たちはマインドコントロールされているのだ、そんな速度で走れるはずがない、目が回って、真実が見えなくなってしまっているのだ、と誹謗中傷の限りを尽くすのです。
このたとえ話が、ただの馬とハエの話だけだったら、問題はないのでしょうが、事は正しい信仰についているかどうか、と言う事です。
この駿馬は、掴まり続ける者たちを乗せて、世界広布へ走り続けます。
ゴールは、一生成仏。
ひとたび弾き飛ばされるか、手を離してしまったら、もう二度とその一生成仏の軌道に戻る事は出来ないのです。
着差 未来永劫
そんなアナウンスが聞こえてきそうではありませんか。