『抑各各はいかなる宿善にて日蓮をば訪はせ給へるぞ、能く能く過去を御尋ね有らばなにと無くとも此度生死は離れさせ給うべし、すりはむどく(須梨槃特)は三箇年に十四字を暗にせざりしかども仏に成りぬ提婆は六万蔵を暗にして無間に堕ちぬ是れ偏に末代の今の世を表するなり、敢て人の上と思し食すべからず事繁ければ止め置き候い畢んぬ。(三三蔵祈雨事 1472頁)』
釈迦の弟子の中で、頭の良い代表と、悪い代表が並べて論じられ、この二人の事を決して他人事と思ってはなりません、と仰せになっているところです。
頭の良い代表は、言わずと知れた提婆達多。そして悪い代表は、これも当然、須梨槃特です。
そして、ここで最も重要な事は、提婆達多は地獄に堕ち、須梨槃特は成仏した、と言う事です。
提婆達多は、知恵第一と言われた舎利弗と、並び立つほどの頭の良さを誇っていたのかもしれません。しかも釈迦の従兄です。一目おかれて当然でしょう。あるいは師匠である釈迦よりも、提婆の方が上なのではないか、と思う者がいても、おかしくはなかったでしょう。釈迦が説法すれば、即座に理解し、次にはそれを自分の言葉として語れるだけのものを持っていたと思われます。
しかしそれは、素直に釈迦の言葉を信じ、伝えるのではなく、師匠であるはずの釈迦さえも、自分の飾りに利用してしまう傲慢な計算があったのかもしれません。
そしてその能力が仇となり、憎上慢に陥り、結局は生きながら無間地獄に堕ちてしまうのです。
一方須梨槃特は、三年かかっても、たった十四字を憶えられないぐらいだったと言います。しかし成仏し、五百弟子受記品第八では「普明如来」の記別を受けています。
何を教えても、どう教えても覚えられない須梨槃特に釈迦はたった十四文字だけを教えます。
『守口摂意身莫犯 (口を守り意を摂(オサ)め、身非を犯すこと莫れ)』
『如是行者得度世 (是の如く行ぜば世を度する事を得)』
つまりは「身・口・意」で悪業を積まないようにしなさい。そして言われるまま、修行していけば、成仏する事が出来ますよ、と教えたのです。
須梨槃特は、その愚鈍さ故に、師匠の言葉を疑わず、必死に守った事でしょう。悪い事をしない、間違った事を言わない、我見を持たない、それだけが師匠の教えに応えることだ、とこれも信じて疑わなかった事でしょう。
この対極にあった二人の事を、大聖人は『三三蔵祈雨事』で『是れ偏に末代の今の世を表するなり』と仰せです。
須梨槃特のような者は、今の世にはむしろ稀でしょう。問題なのは提婆達多です。
六万蔵を暗誦しながら、なぜ提婆は無間地獄に堕ちねばならなかったのでしょうか。
その答は、須梨槃特が、三年もかかって、ようやく覚える事の出来た十四字の中にあるのではないでしょうか。
提婆は、ある意味天才だったと言えるでしょう。だからこそ自らの智に溺れないための用心が、最も重要だったはずです。しかし、師匠の従兄だ、との自惚れから、自らを省みる事ができませんでした。
その点、釈迦に叱責され、陰の戦いに徹し、密行第一と言われた羅睺羅と対照的です。
そして提婆にはもう一つ、どうしても釈迦を許せない事がありました。それが耶輸多羅女への横恋慕だったとしても、本人にはどうしても譲れない事だったのでしよう。
かくて提婆は、自分の欲望に支配され、我見と慢心から釈迦へ反逆の限りを尽くし、地獄へ堕ちてしまうのです。
貪り、瞋り、愚かの生命に支配され、どこまでも我見を肥大化させた提婆の姿は、末法も時の過ぎた現代において、誰もが落ちてしまう姿なのかもしれません。だからこそ、御本仏日蓮大聖人の言葉を素直に信じ、師匠の言葉に我見を加えず、我こそは、の慢を下して行かなければならないのでしょう。
しかし憎上慢に陥っている人は、決して自分がそうなっているとは思わないものです。
多くの同志が忠告しているにもかかわらず、我こそは真正の仏教徒として振る舞い、聞く耳持たず、奇妙な造語を連発して決めつけ、擦り寄って来る者だけを大事にしているような者がいたら、その人は、間違いなく提婆の眷属と言えるのではないでしょうか。
私は、どんなに愚鈍でも良い、現代の須梨槃特でありたいと思います。
釈迦の弟子の中で、頭の良い代表と、悪い代表が並べて論じられ、この二人の事を決して他人事と思ってはなりません、と仰せになっているところです。
頭の良い代表は、言わずと知れた提婆達多。そして悪い代表は、これも当然、須梨槃特です。
そして、ここで最も重要な事は、提婆達多は地獄に堕ち、須梨槃特は成仏した、と言う事です。
提婆達多は、知恵第一と言われた舎利弗と、並び立つほどの頭の良さを誇っていたのかもしれません。しかも釈迦の従兄です。一目おかれて当然でしょう。あるいは師匠である釈迦よりも、提婆の方が上なのではないか、と思う者がいても、おかしくはなかったでしょう。釈迦が説法すれば、即座に理解し、次にはそれを自分の言葉として語れるだけのものを持っていたと思われます。
しかしそれは、素直に釈迦の言葉を信じ、伝えるのではなく、師匠であるはずの釈迦さえも、自分の飾りに利用してしまう傲慢な計算があったのかもしれません。
そしてその能力が仇となり、憎上慢に陥り、結局は生きながら無間地獄に堕ちてしまうのです。
一方須梨槃特は、三年かかっても、たった十四字を憶えられないぐらいだったと言います。しかし成仏し、五百弟子受記品第八では「普明如来」の記別を受けています。
何を教えても、どう教えても覚えられない須梨槃特に釈迦はたった十四文字だけを教えます。
『守口摂意身莫犯 (口を守り意を摂(オサ)め、身非を犯すこと莫れ)』
『如是行者得度世 (是の如く行ぜば世を度する事を得)』
つまりは「身・口・意」で悪業を積まないようにしなさい。そして言われるまま、修行していけば、成仏する事が出来ますよ、と教えたのです。
須梨槃特は、その愚鈍さ故に、師匠の言葉を疑わず、必死に守った事でしょう。悪い事をしない、間違った事を言わない、我見を持たない、それだけが師匠の教えに応えることだ、とこれも信じて疑わなかった事でしょう。
この対極にあった二人の事を、大聖人は『三三蔵祈雨事』で『是れ偏に末代の今の世を表するなり』と仰せです。
須梨槃特のような者は、今の世にはむしろ稀でしょう。問題なのは提婆達多です。
六万蔵を暗誦しながら、なぜ提婆は無間地獄に堕ちねばならなかったのでしょうか。
その答は、須梨槃特が、三年もかかって、ようやく覚える事の出来た十四字の中にあるのではないでしょうか。
提婆は、ある意味天才だったと言えるでしょう。だからこそ自らの智に溺れないための用心が、最も重要だったはずです。しかし、師匠の従兄だ、との自惚れから、自らを省みる事ができませんでした。
その点、釈迦に叱責され、陰の戦いに徹し、密行第一と言われた羅睺羅と対照的です。
そして提婆にはもう一つ、どうしても釈迦を許せない事がありました。それが耶輸多羅女への横恋慕だったとしても、本人にはどうしても譲れない事だったのでしよう。
かくて提婆は、自分の欲望に支配され、我見と慢心から釈迦へ反逆の限りを尽くし、地獄へ堕ちてしまうのです。
貪り、瞋り、愚かの生命に支配され、どこまでも我見を肥大化させた提婆の姿は、末法も時の過ぎた現代において、誰もが落ちてしまう姿なのかもしれません。だからこそ、御本仏日蓮大聖人の言葉を素直に信じ、師匠の言葉に我見を加えず、我こそは、の慢を下して行かなければならないのでしょう。
しかし憎上慢に陥っている人は、決して自分がそうなっているとは思わないものです。
多くの同志が忠告しているにもかかわらず、我こそは真正の仏教徒として振る舞い、聞く耳持たず、奇妙な造語を連発して決めつけ、擦り寄って来る者だけを大事にしているような者がいたら、その人は、間違いなく提婆の眷属と言えるのではないでしょうか。
私は、どんなに愚鈍でも良い、現代の須梨槃特でありたいと思います。