『又世間の天台宗の学者並びに諸宗の人人の云く法華経は但二乗作仏久遠実成計りなり等云云、今反詰して云く汝等が承伏に付いて但二乗作仏と久遠実成計り法華経にかぎつて諸経になくば此れなりとも豈奇が中の奇にあらずや。(小乗大乗分別抄 521頁)』
二乗は、永く成仏できない、と仏から嫌われ、三悪道の衆生よりも悪い、とされてきました。
本当にそうでしょうか。そんなに二乗は、人として劣るのでしょうか。私にはずっと疑問でした。
任用試験を受けたのは、もう何年前になるのでしょうか、その時初めて十界論を学びました。二乗、という言葉を初めて知ったのもその時です。これでもか、と言うほど、悪いイメージを植え付けられました。
その時の素直な感想は、こんな上に位置しているのに、何でそこまで言われなければならないのか、という事でした。しかも二乗の代表としてあげられているのは、釈迦の十大弟子と言われる人たちです。舎利弗や迦葉、阿難と言った人たちが、そんなに仏から嫌われる理由が、理解できなかった、と言ったらいいのでしょうか。
今、その疑問は解決しましたが、やはり誤解したままの人が、いるみたいなので、少し二乗の弁護も兼ねて、そこのところを考えてみたい、と思います。
もうかなり前の事になりますが、私も人並みに文通をした事がありました。毎回、かなり長文の手紙を書いてくるその人に合わせて、私も長い文を心掛けて書いてはいたので、狭い罫の便せんを使用して、長ければ良い、みたいに書き殴っていました。
文は人なり、と言いますが、それが分かったのも、この文通を通してだったのかもしれません。十界互具が、その文通を通じて分かったように思うのです。たった一度だけ、その人と会った時、十界論の立場から、その人の性格を二十項目ほどすべて、言い当ててしまいました。
今だったら、相手の事も考えて、少しは優しく表現するでしょうが、当時は若かったのですね、遠慮なく相手の事を言ってしまう私に対して、こわばった表情になったその人は言いました。
「君って、恐ろしいね」
簡単な事でした、その人は地獄を基底にした上に、二乗の仮面をかぶっていただけなのです。だから、地獄界のエリートを想定するだけで、すべてドンビシャの説明になってしまったのです。
でも、言い当てられた方としては、化け物にあったような印象を持ったのでしょう、その後の手紙には、あまり本心を見せないようになり、私も面倒臭くなって、文通は自然消滅していきました。
二乗は、たぶん明日、この世が終わると言われても、自分の考えを変えないでしょう。研究者は研究を続け、物書きは原稿と取り組み、画家は絵筆を取り続けるはずです。
そこに他人が入る余地はありません。
言いかえれば、他人を思いやる余地はないのです。
それが、他人との関わりを拒絶し、独りよがりになってしまう二乗が、仏から嫌われた根本なのだろう、と思います。
菩薩が人と関わって、苦しんでいる人がいたら、何か力になってやりたい、と思うのと対比するとよく分かると思います。
しかし十界は互具しています。
二乗にも十界が備わり、他の十界にも二乗が備わっています。
これがミソなわけです。
三悪道を基底にしている二乗か、二乗を基底にしている二乗か、それによって全く違う評価が生まれるのです。
二乗に対する評価の多くが、三悪道・四悪趣基底の二乗に対するものになっているのではないでしょうか。二乗を基底にできる人なんて、滅多にいないので、自分の理解の範囲で二乗を考えてしまうのでしょう。
それこそ、三悪道・四悪趣を基底した二乗の生命で批評しているだけなのですが、批評をしている自分を偉いと思いこんで、自分は二乗以上だ、とこれはジョークを越した勘違いをしているわけです。
批評をしている生命は上に乗っかっている二乗で、二乗をさげすむ生命は基底が修羅だと、こんな簡単な理屈に気が付かないのでしょうか。
自分の基底が何なのか、正しく評価できなかったら、それこそ永久に成仏の軌道から外れて行ってしまうかもしれません。
二乗は、永く成仏できない、と仏から嫌われ、三悪道の衆生よりも悪い、とされてきました。
本当にそうでしょうか。そんなに二乗は、人として劣るのでしょうか。私にはずっと疑問でした。
任用試験を受けたのは、もう何年前になるのでしょうか、その時初めて十界論を学びました。二乗、という言葉を初めて知ったのもその時です。これでもか、と言うほど、悪いイメージを植え付けられました。
その時の素直な感想は、こんな上に位置しているのに、何でそこまで言われなければならないのか、という事でした。しかも二乗の代表としてあげられているのは、釈迦の十大弟子と言われる人たちです。舎利弗や迦葉、阿難と言った人たちが、そんなに仏から嫌われる理由が、理解できなかった、と言ったらいいのでしょうか。
今、その疑問は解決しましたが、やはり誤解したままの人が、いるみたいなので、少し二乗の弁護も兼ねて、そこのところを考えてみたい、と思います。
もうかなり前の事になりますが、私も人並みに文通をした事がありました。毎回、かなり長文の手紙を書いてくるその人に合わせて、私も長い文を心掛けて書いてはいたので、狭い罫の便せんを使用して、長ければ良い、みたいに書き殴っていました。
文は人なり、と言いますが、それが分かったのも、この文通を通してだったのかもしれません。十界互具が、その文通を通じて分かったように思うのです。たった一度だけ、その人と会った時、十界論の立場から、その人の性格を二十項目ほどすべて、言い当ててしまいました。
今だったら、相手の事も考えて、少しは優しく表現するでしょうが、当時は若かったのですね、遠慮なく相手の事を言ってしまう私に対して、こわばった表情になったその人は言いました。
「君って、恐ろしいね」
簡単な事でした、その人は地獄を基底にした上に、二乗の仮面をかぶっていただけなのです。だから、地獄界のエリートを想定するだけで、すべてドンビシャの説明になってしまったのです。
でも、言い当てられた方としては、化け物にあったような印象を持ったのでしょう、その後の手紙には、あまり本心を見せないようになり、私も面倒臭くなって、文通は自然消滅していきました。
二乗は、たぶん明日、この世が終わると言われても、自分の考えを変えないでしょう。研究者は研究を続け、物書きは原稿と取り組み、画家は絵筆を取り続けるはずです。
そこに他人が入る余地はありません。
言いかえれば、他人を思いやる余地はないのです。
それが、他人との関わりを拒絶し、独りよがりになってしまう二乗が、仏から嫌われた根本なのだろう、と思います。
菩薩が人と関わって、苦しんでいる人がいたら、何か力になってやりたい、と思うのと対比するとよく分かると思います。
しかし十界は互具しています。
二乗にも十界が備わり、他の十界にも二乗が備わっています。
これがミソなわけです。
三悪道を基底にしている二乗か、二乗を基底にしている二乗か、それによって全く違う評価が生まれるのです。
二乗に対する評価の多くが、三悪道・四悪趣基底の二乗に対するものになっているのではないでしょうか。二乗を基底にできる人なんて、滅多にいないので、自分の理解の範囲で二乗を考えてしまうのでしょう。
それこそ、三悪道・四悪趣を基底した二乗の生命で批評しているだけなのですが、批評をしている自分を偉いと思いこんで、自分は二乗以上だ、とこれはジョークを越した勘違いをしているわけです。
批評をしている生命は上に乗っかっている二乗で、二乗をさげすむ生命は基底が修羅だと、こんな簡単な理屈に気が付かないのでしょうか。
自分の基底が何なのか、正しく評価できなかったら、それこそ永久に成仏の軌道から外れて行ってしまうかもしれません。