槍と銃剣

近世西洋軍事と日々の戯言&宇宙とか色々

魔術師クロンステッド(草稿その4)

2009年12月25日 00時06分18秒 | 大北方戦争+軍事史
魔術師クロンステッド(草稿その3)

 またヘルシングボリの戦いの経験から、彼は野戦砲の機動力を上げ、砲兵隊を効果的に運用しなければならないと痛切に思い知った。そこで彼は野戦砲の改良を試みた。彼は機動力の向上、射撃速度の向上、命中精度の向上という三つの問題に対してそれぞれ、独自の解決策を提示した。
 まず機動力の向上においては、第一に砲を牽引する2頭立ての牽引馬に取り付ける、壊れにくく簡単に取り外し可能な巧妙な装具を考案し、砲口を敵に向けたまま馬で射撃位置まで移動できるようにした。そして戦闘の最中でも砲兵や歩兵が野戦砲を自在に動かせるように、Anmarschbommar(Marching bar)と呼ばれる取り外しがこれも簡単な棒状の装具を考案した。
 次に射撃速度の向上においては、Geschwinda skottと呼ばれる、砲弾と装薬が一体化された砲弾を考案した。この砲弾を用いることで、1分間に10発以上という当時として驚異的な射撃速度を実現したと記録されている。(代わりに射程距離が短くなったが)
 そして最後に命中精度の向上において、彼は当時スウェーデンでもっとも著名な発明家であったポルヘムが考案した砲の仰角を調整する砲尾のネジを導入した(それまでは不格好な楔で調整が行われていた)。
 これらは当時としては極めて先進的な改良であった。そのため、彼の上官であったガブリエル・アペルマンは、効果を疑問視して彼のこれら提案に反対した。しかし、カール12世とステンボックはこの提案に賛意をあらわし、その結果、反対意見は沈静化した。こうして1710年10月31日、防衛委員会によって彼の提案は承認された。
 実際に、彼が行った改革は非常に効果的であった。砲兵隊は機動力を手に入れ、独力で必要とされる場所に素早く赴き、1分間に10発から14発程度という驚異的な射撃速度で敵を圧倒することが出来るようになったのである。それはつまり、歩兵の前進に先立って前方に進出し、敵が戦闘準備を整えぬうちに連続射撃を一方的に加えるという理想的な運用である。

魔術師クロンステッド(草稿その5)

魔術師クロンステッド(草稿その3)

2009年12月23日 20時30分14秒 | 大北方戦争+軍事史
魔術師クロンステッド(草稿その2)

 祖国に戻ると、彼は1709年10月12日エリザベス・アルネルと結婚し、ストックホルムの砲兵隊に所属した。砲兵隊もまた、軍の再編を急いでいた。彼は1710年1月4日、少佐となり、そして独創的な砲兵将校として頭角を現すようになる。
 デンマーク軍がスコーネに上陸すると、彼はマグヌス・ステンボック軍の砲兵将校となって、1710年のヘルシングボリの戦いの勝利に大きく貢献した。彼はスウェーデンの野戦砲を巧みに使いこなすことが出来る数少ない砲兵将校であった。この戦いで彼の指揮下にあった砲兵中隊は、デンマーク近衛隊との激戦の最中、敵から15歩程度の距離にある沼地まで進出し、その沼地で敵の攻撃を防ぎつつ近距離砲撃を実施したと言われている。
 戦いの後、マグヌス・ステンボックは手紙の中で、クロンステッドを極めて優秀な士官である褒め称えている。そして彼はこの戦いの後、デンマーク軍に占領されていたヘルシングボリの攻囲戦においても功績をたてた。これらの一連の成功により彼は同年4月中佐に昇進した。

魔術師クロンステッド(草稿その4)

EPUB規格準拠の電子書籍ビューアで縦書き対応

2009年12月22日 21時00分24秒 | Kindleや端末など
ACCESS、アジアの言語向けに縦書きテキストの表示・閲覧を実現する電子書籍ビューアを開発

EPUB規格準拠の電子書籍ビューアで、縦書き対応とのこと。
基本的にメーカーへの供給ソフトだが、
これがソニーリーダーに採用されるとかなり良いのではと思わせる。
もっとも、このソフト独自形式の縦書きフォーマット+EPUBといった感じなので、
業界標準となっていくかは不明だ。
だれもが手軽に縦や横(従来のEPUB)に変換できる形式なら良いのだが。

しかし、アマゾンも独自形式で縦書きに対応して行って欲しいな。
やっぱり縦書きがないと東アジアでのシェアが奪われていくような気がする。


魔術師クロンステッド(草稿その2)

2009年12月22日 00時28分07秒 | 大北方戦争+軍事史
魔術師クロンステッド(草稿その1)

 彼は1672年5月22日、ストックホルムに生まれた。1679年にルンド大学の学籍簿に登録されているが、これは当時の大学が高等教育を行うだけの機関ではなかっただけであり、特に珍しいことではない。1693年3月18日、彼はマルティン・クロンステッドの養子となり、貴族位を得た。大学での勉強を終えた後、彼は陸軍の砲兵隊に入隊した。そこで傑出した才能の片鱗を見せ始め、1699年27才で砲兵隊の工兵曹長(överminör )に昇進した。1年後に大北方戦争が始まると、1700年4月7日、彼は野戦砲兵連隊の副官となり、ナルヴァの戦いで初陣を飾った。この戦いでその勇敢さを発揮した彼は、1701年3月4日、砲兵少尉に昇進する。続いて彼はドヴィナ河渡河に参加した。この戦いで、彼は砲舟の一隻を指揮し、スウェーデン軍の渡河を支援した。
 以後、彼はカール12世の主力軍には従わず、リガの野戦砲兵隊に所属した。そして1702年2月11日に砲兵中尉。1703年6月1日、連隊兵站官と順調に軍歴を重ね、1704年、砲兵隊と伴にプロイセンに、1706年にはザクセンに赴いた。
そして1706年12月6日には工兵隊長(大尉)となり、ロシア遠征に参加した。
 砲兵が大いに活躍したホロウティンの戦いやベレジナ河渡河において彼は十分にその才能を発揮した。その後、1709年1月のVeprik強襲に参加した彼は、その年の春から夏にかけてのポルタヴァ攻囲においても包囲と監視の任についた。
 もっとも6月28日のポルタヴァの戦いに彼は参加していない。砲兵であった彼は、幸か不幸かポルタヴァの街の周辺で輜重隊と行動を共にしていたからである。こうして会戦においては何らの役割も果たすことができなかったが、続く主力の敗走において、彼は直ちに無傷の兵として活発に撤退を支援した。
 その中で彼は兵站監ユーレンクロークの下でペレヴォロチナの渡河点を探すべく偵察を行っている。しかしこの試みは無駄に終わった。1709年7月1日、追いつめられたスウェーデン軍は全面降伏した。そして彼もまたロシア軍の捕虜となった。ただ、幸いなことに捕虜生活は長くなかった。彼は直ぐさまロシア軍砲兵大尉との捕虜交換によって釈放されたからである。(もっともこれには異説がある。一つは逃亡したというもの、もう一つは、賄賂と引き替えに釈放されたというものである)

魔術師クロンステッド(その3)

Google Book問題

2009年12月21日 23時52分06秒 | 戯言
グーグル、フランスの「Google Books」訴訟で敗訴


予想通りの判決である。
ヨーロッパはヨーロッパで独自の取り組みをしているので、
Googleのやり方を認めるはずがない。

Europeana

おそらくGoogleは急ぎすぎた。
だが投げかけた問題は大きい。

日本でも国会図書館主導でデジタル化を進めているが、
悪名高きJASRACのようになりそう。
ろくなことにならない可能性大。

おまけにこんなこと言っている人もいる。
佐々木譲の備忘録

しかしGoogleにしても同じ事。
「版権レジストリは、いわば世界規模のJASRAC」--Googleブック検索問題の本質


つまるところ、なあなあでやって来たところを、ハッキリさせる時代がきたということだろう。
個人的には、絶版になってしまって読むに読めない、買うに買えない本を
手に入れられる機会が増えると言うことは非常に喜ばしいのだが。

そのうちに、有名作家は出版社を通さずに顔見知りかフリーの編集者と組んで
デジタル出版してgoogleやらamazonに広告出して、
好きに売る時代が来るのかも知れない。
と一瞬思った。が、これ、同人誌とほとんどかわらんな・・・・・・
コミケで売るのか、googleBookやらアマゾンで売るのかの違いだ。
まぁそれが大きいのだろうけどさ。

魔術師クロンステッド(草稿その1)

2009年12月20日 22時10分32秒 | 大北方戦争+軍事史
カール・クロンステッド(1672-1750) 
ハットン女史の本にはmagicianの異名で載っている。
魔術師カール・クロンステッド。
ヤン・ウェンリーみたいで格好いいですね。
実際、18世紀初頭最高の砲兵将軍です。

当時まだまだ鈍重だった砲兵を改良して
最大で14~16発/分というべらぼうな射撃速度を実現した挙げ句、
歩兵でも馬でも野戦砲を運びやすくして、
そして停止と同時に敵に打ち込めるように、
戦闘移動時は常に敵に砲口を向けるようにした人です。
発明家の発明を取り入れて命中精度も、向上させてます。
この人の戦いはハッキリ言って反則ですね。
ガーデブッシュの戦いでステンボックが勝利できた最大の功労者です。
いきなり最前線に進出して、準備の整っていない敵を撃ちまくった。
3時間でカタが付いたのも当然です。

もっともカール12世暗殺犯みたいに扱われてちょっとかわいそうな人でもあります。

そのうち正式版にしてHPに載せるつもり。

カール・クロンステッド(1672-1750) 
1672年5月22日ストックホルムにて生誕
1679年ウプサラ大学の学生簿登録
1693年3月18日貴族位
1699年砲兵隊工兵曹長
1700年4月7日砲兵隊副官
1701年3月4日砲兵少尉
1702年2月11日砲兵中尉
1703年6月1日連隊兵站監
1706年12月6日工兵大尉
1709年7月1日ペレヴォロチナで捕虜。しかし直ぐに解放され、スウェーデンに帰国
1710年1月4日砲兵少佐
1712年6月13日正式任官
1710年4月22日マルメ砲兵隊中佐
1712年3月19日ステッテン砲兵隊中佐
1712年9月17日正式任官
1713年3月27日戦場砲兵隊大佐
1713年5月16日テニングで捕虜。しばらく後に解放。
1715年11月9/20日歩兵少将
1718年8月3日男爵
1720年3月22日中将
1739年6月19日フィンランド軍総司令官
1740年6月4日軍事顧問会議総裁
1748年4月16日大十字剣勲爵士(KSO:Svärdsorden Kommendör med stora korset)
1748年4月17日熾天使勲爵士(Serafimer Riddare)
1750年12月13日ストックホルムにて死去
結婚
1709年10月12日エリザベス・アルネル(Elisabeth Arnell 1685/3/25~1750/11/1)

 クロンステッド家は17世紀に貴族となった家系で、1686年11月17日、アクセル・オクセンシェーナの領地経営を委任されていたマルティン・ガベリウス(Marten Gavelius 1638-1709)が貴族に列せられてクロンステッドの姓をもらったことに始まる。しかしマルティンと妻アナ・ゲルデス(Anna Gerdes ?-1701)との間には子がいなかった。その代わり、アナは前夫でストックホルムの貿易商だったアンドレアス・オルデルマン(Anders Olderman 1651-97)との間に6人の子供を得ていた。その結果、マルティンはこの妻と前夫との間に出来た子供たちを養子として引き入れ、クロンステッド姓を名乗らせて家を相続させた。この6人の子供(Christina Cronstedt (Olderman);Johan Cronstedt (Olderman);Anna Elisabet Cronstedt (Olderman);Jakob Cronstedt (Olderman);Gabriel Cronstedt (Olderman);Carl Cronstedt (Olderman))の末弟が、有名な砲兵将校カール・クロンステッドである。

その2へ

テルシオ(スペイン方陣)

2009年12月20日 20時23分06秒 | 大北方戦争+軍事史
グスタヴ・アドルフなど三十年戦争が好きな人は
スペイン陸軍が誇るテルシオ、あるいはスペイン方陣についてもよく知っていると思う。

だけど、インターネットをくるくる見て回ると、
イマイチ、実情が理解されていないような感じがする。
ウィキペディアにおいてもテルシオ(スペイン方陣)の改良については、
「新隊形を開発するのは1635年のことである。それはスペイン方陣とスウェーデン式大隊を合成したものだった」
としている。
この年は正式にテルシオの人数が三千名から千名へ削減された年でもあるが、
実際はその前から実質においては削減されていた事実も忘れられている。

ということで、専門家ではないが、知っていることを書くとしよう。

まず通説だがテルシオについて抱いている一般のイメージはこんな所だろう。

ブライテンフェルトや後の戦いにおいてもテルシオは、
ほとんど常に全盛期と同様に巨大な方陣であり、その定員は1000-2000名であった。
そしてその時代遅れで鈍重な隊形は、スウェーデンやフランスが用いた新式の戦闘隊形によって打ち破られた、
といった感じだ。

文献を引用すると以下のようなのが一般的。

「前面に、およそ100人。これが12列から15列、最前列に銃兵が並び。中核には長槍が葦原のごとく林立し、…方陣の四隅を銃兵が堅め、1組のテルシオが完成される。…グスタフ軍の…銃兵が…射撃を間断なく注ぎ…テルシオの最外縁を固める火縄銃兵は…打ち倒され…切り崩されていく」"戦略戦術兵器事典3 ヨーロッパ近代編



しかし実際をちょっと調べてみると次のようなことが分かった。

まずテルシオはリュッツェンやブライテンフェルトでは使われなかった。
名前こそテルシオであったがその戦闘隊形はスペイン方陣ではなく、オランダ・スウェーデン方式に近いもので、
中央に槍兵を置き、その両側に銃兵を並べる横隊隊形であったということである。
1630年から1635年にかけてのテルシオの槍兵の縦深は10列程度にまで削減されており、
銃兵の縦深も9-3列と状況に応じて、正面幅を延伸することが出来るようになっていた。
そして定員は1000名程度であった。
銃兵の比率も60-70%となりオランダ・スウェーデン方式に近い比率にまで高まっていた。
つまるところ、多少大きいがもう決して方陣ではなく、
機動力をではなく陣形の堅固さを保ったまま射撃戦能力を向上させ
守備的な横隊形を組み上げるようになっていたというわけである。

「「テルシオ」(現代の一部の歴史家の説に反して、リュッツェンやブライテンフェルトでは使われなかった)」
"オスプレイ グスタヴ・アドルフの騎兵"

「スペイン方陣(Spanish Tercio)はブライテンフェルトやリュッツェンだけでなくノルトリンゲンにおいても使われず、彼らは堅固な陣形と銃兵の能力を用いることでスウェーデン軍の突撃に抵抗することが出来た」
"The Spanish “Tercios” 1525 - 1704 "


(ちなみにこの絵はかなり適当。もっとちゃんとした絵が、The Spanish “Tercios” 1525 - 1704にある)

おまけに前記のサイトを読むと、ノルトリンゲンの戦いにおいて、
テルシオの兵は鈍重というイメージを覆すかのように、
スウェーデン軍の射撃準備にあわせて身を屈めるように膝立ちになり、
スウェーデン軍の一斉射撃をやり過ごすことまでやっている。

こうやって見てみると、如何に世間一般に流布しているイメージで
物事を判断することの軽率さというものの一端が見て取れると思う。

kindle 輸出手数料の返金

2009年12月19日 12時58分11秒 | Kindleや端末など
最初の頃に買った人たちだけなのかも知れませんが、
輸出手数料が減額されたため、Amazonから12ドルほど
返金があるようです。

私へのメールは日本円換算できました。

We're writing to let you know we processed your refund of JPY1,089 for your Order

Item: Kindle Wireless Reading Device
Quantity: 1
Reason for refund: Export fee reduced

で、返金はクレジットカードで確認してねということらしい。

Refunds typically complete within 10 business days and appear as a credit on your statement.

ちょっとトクした気分ですね。

携帯画面で本を読む

2009年12月19日 10時18分07秒 | Kindleや端末など
Android機の上で本などを楽に読めるリーダーアプリIssuu Mobile

携帯は画面が小さい。だからkindleくらいのサイズが欲しい。
でも、このアプリはかなりその不便が軽減されそうだ。
しかしこの簡単な拡大機能は、kindleのpdfにも特に欲しい機能とも言える。
こういった役立つアプリやサービスが一般化されれば、
電子書籍や電子書籍端末の普及に繋がるだろう。

Androidアプリだからこの間にBIGLOBEが発表した端末でも使えるだろうから、
6~7インチ画面での有用性もそのうちに試されるようになるはずだ。

kindleは悪くないが、やはり自由な使い勝手という点では、
こういったオープンソースベースの端末に後れを取りそうだ。


SONY追撃態勢

2009年12月18日 21時50分46秒 | Kindleや端末など
SONY READERのkindle追撃態勢が整い始めてきた。

ソニー、電子書籍リーダーに新聞配信 米国で

新リーダーは通信対応で、7インチでタッチスクリーン。そこへ新聞も配信。
そして日本再参入も検討中。

ソニー、日本で電子書籍に再参入 複数の出版社と交渉

加えて考えてみればSONYも総合力ではかなり実力の持ち主。

ソニーがPSNを越えるサービスを計画中

すべてを連動させてきたら、かなりのサービスが提供されるだろう。

SONYの復活はあるのだろうか。